#26 子供のため
脳裏に思い浮かぶのは、赤子を抱いたトモミ。その隣にシロと、嫁たちの姿がある。
その光景は不思議と嫌ではなかった。むしろ、胸のあたりがぽかぽかと温かくなる感覚がある。『書物庫』で覚えた嫌悪が、まるで悪い夢であったかのようだ。
子育てはトモミがしてくれる。手伝ってくれる。シロがかつてそうであったように。
「……トモミさんに、赤ちゃん、抱っこしてほしい」
そう答えると、トモミの表情が固まった。ぽかんと口を開けたその様は、普段からは想像がつかないほどの間抜け面だ。きょとんと、シロはつられて目を丸くした。
「トモミさん?」
はっと息を飲むトモミ。
「親冥利に尽きるよ。きっとかわいいだろうね、シロちゃんの子供」
「トモミさんはどうなの? 欲しい?」
「もちろん。まあ、私はもう作れないけどね」
伏せる
呆気に取られるシロに気づいたのか、トモミはころりと表情を変えてシロの頭を撫でた。
「シロちゃんの子供が見られるなら、私はそれで満足だよ」
「それがトモミさんの愛?」
「……そうなるね。不満?」
ふるりとシロは首を振る。子供を作ればトモミは喜んでくれる。幸せになる。それが分かっただけで満足だった。
「ぼく、トモミさんにいっぱい愛されてたんだね」
「今さら気づいたのかい? 悪い子だ」
トモミはシロの身体を引き寄せて腕の中に収める。立てた足とビーズクッションに預けた上半身とでぎゅうぎゅうと絞めつけられたシロは、きゃらきゃらと笑って細足をばたつかせた。
「コトニちゃんにムツキちゃん、それからユイちゃん。みんなの価値観を教えてもらったけど、やっぱりトモミさんのが一番安心する」
「そりゃそうだろうね、家族だもの」
「家族なの?」
「家族だよ。 家族だから、価値観が似て当たり前」
ほう、とシロは思わず感嘆の息を洩らす。胸の中に渦巻いていた不安が、みるみるうちに引いていくような感覚を覚えた。
何を経ようとも、『子供』という結末に辿り着きさえすればよい。
目前に広がる底のない闇を見たシロにとって、それは突如として現れた電灯に等しかった。たとえ道が分からずとも、ただ闇雲にあの場所へ。それだけでシロの胸は安堵に包まれるのだ。
「約束だもん、赤ちゃんはちゃんと作る。だけど、時間は掛かると思う。……いい?」
頭上を見上げ、改めて問う。するとトモミは少しだけ寂しそうに笑って、シロの頭を撫でるのだった。
◆◇◆
久方ぶりに過ごす一人の夜は、ひどく肌寒かった。羽毛布団に加え毛布を被っているにもかかわらず、這い上がる冷気がひどく身に沁みる。
そうか、と気付く。
ここ数日は不言コトニが横にいたから温かかったのだ。数日前までは普通だった肌寒さがひどく憎らしく思えて、頭から布団を被る。耳が痛むほどの静寂。逃れるために今日の昼間へと意識を飛ばした。
愛の末の子供なら欲しいと語るコトニ。
己の証明のために子供を求めるユイ。
否定的でありながら子供への欲を隠さないムツキ。
いつかシロの子供を見たいと語ったトモミ。
皆が皆、子供を欲しがっている。皆が皆、シロの子づくりを望んでいる。それは非常に喜ばしいことだ。
だけど。
「…………」
肩に掛かるのは、冷たい手。冷静になればなるほど、身体の奥が冷えてならない。
子供ができたら、興味がなくなってしまうのではないか。シロに、無知の両性具有に。
嫁たちや世話役を信じたい気持ちはある。しかしどうしても、その懸念が胸にこびりついて剥がれないのだ。
「……じゃあ――」
子供ができたら、シロは役目を終えるのか。着古してくたくたになった肌着のように、ゴミ箱へと放り込むのだろうか。そうだとしたら、あまりにも。
「ぼくは、子供のために生きてるの?」
考えたことがなかった。子供を作り、使命を全うした後、自分はどうなるのか。トモミは今まで通りの笑顔を向けてくれるだろうか。
胸の奥から重苦しいモヤが這い上る。想像を巡らせれば巡らせるほど温かい視線は冷え込み、幻覚はシロを追い詰める。
「考えちゃだめ、考えちゃだめ……寝なきゃ……」
眠れば全て忘れる。ぎゅっと背中を丸めて、耳を塞いで。それでも忍び寄る悪寒は消えない。布団の上からずしりと、シロを押し潰さんと覆い被さる。その時であった。
上半身を起こして耳を澄ませる。確かにそれは聞こえた。どうやら窓の外で鳴っているらしく、今にも消えてしまいそうなほどか細い。夜にはぴったりと閉めているカーテンを開けて、暗闇に目を凝らす。
「誰……ネコ?」
図鑑と、時折トモミが持ってきてくれる古い映画の中に登場する黒猫だ。
初めて目にする本物に、慌ててスタンドライトを灯して件の猫を観察しようとするが、それは金色の煌めきを残して闇に溶けてしまう。窓に照り返るのは、ひどく心細そうな顔の己のみ。
黄金の光から察するに、どうやらその猫はベランダのさらに奥、木の上にいるようである。
『庭』からシロのいる二階部分にまで幹を伸ばすそれは、視界を遮らないよう控え目に垂れて、時期によって花や枯れ葉など様々な色を見せてくれる。そんな隣人とも言うべき木に、いつからあの猫はいたのだろうか。
脳裏をよぎるのは『あん』の悲鳴。シロは導かれるように、ベランダへと続く扉を開いた。
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