#19 家族

「お風呂、気持ちよかったね~」


 未だ濡れるシロの髪に温風を吹きかけて、コトニが笑う。


 薄桃色のベビードールに身を包んだシロの背後に、もこもこと柔らかい毛を纏うルームウェアを着込んだコトニが構えている。


 風呂の湯気が微かに漂うシロの『家』で、二人は揃って絨毯の上に座り込んでいた。温められて敏感になった肌を、どれだけ踏みつけても潰れることのない短毛がくすぐる。シロはこの感覚がいっとう好きだった。


 頭皮をマッサージしてもらいながら、シロはうっとりと目を閉じる。


「えへ、コトニちゃん、頭洗うの上手だね。眠くなっちゃう」


「そう? んふふ、嬉しいな」


 ぴたりとドライヤーの音が止む。するとコトニの手がくしを取り上げて、今度は優しくシロの髪をき始めた。


「ずっと憧れてたんだ、妹に。だからこうやってシロちゃんのお世話ができるの、嬉しい」


「兄弟、いるんだっけ」


「うん。上と下にそれぞれ一人ずつ。でも、二人とも男の子なんだよね。だから髪の毛の弄りがいがなくて」


「男の子……」


「あ、もしかして見たことない? それじゃあイメージが湧かないよね~」


 嫁たち女性と対になる存在、男性。それはシロの片割れを成すものだった。男性の存在は資料や本で見たことがある。しかし現実では会ったことはおろか聞いたこともない。世話役も話題に上げていなかったように思える。


 半ば実在が危ぶまれていた男性であるが、どうやらコトニの口振りから察するに、この日本にも実在はしているらしい。


 シロから『女性』を取った姿、『男性』。それがどのような形であるのか――興味が湧く。


「どんな人なの、男の子って」


「ふふ、変な質問。そうだねぇ、一言で表すのは難しいけど……強いて言うなら『力持ち』かな」


「力持ち?」


「そう。重いものを運べるんだよ。瓦礫がれき――あっ、これじゃあ分かりにくいね。シロちゃんが寝たままのベッドとか、シロちゃんが座ったままの椅子とか。どう、イメージできる?」


「……なんとなく?」


 首を傾げながらも頷くと、コトニは「ムツキちゃんを連れて来ればよかった」と頬を掻く。


「女の子の違い、と言うと授業みたいになっちゃうけど、一番大きいのは身体の構造かなぁ。でも、それ以外の違いって実はそんなにないんだよ」


「そうなの?」


「そう。アタシたちみたいにいろいろ考えたり感じたり、話したり食べたりもする。でも、ちょっとお馬鹿な人が多いかもね。雪をいっぱい食べてお腹を壊した子がたっくさんいるでしょ。それから、池の氷を誰が割るかのチキンレースをやっていたり……」


 コトニの語るエピソードは底を突かない。次から次へと湧いて出てくる話に、シロは眩暈がしそうだった。


 丁寧に整えられたシロの髪を、名残惜しそうに撫でるコトニ。せっかく整えた髪から、今度は三本の束を引き出して編み始めた。


「シロちゃんは憧れってある? 姉妹きょうだいに」


「うーん、ある、のかな? トモミさん以外が『お家』に来るようになったら……って考えたことはあるよ」


「そっかぁ。でも、シロちゃんの想像は現実になりそうじゃない?」


 コトニの瞳がシロを覗き込む。シロは意を汲めずに瞬きを繰り返すが、コトニの言葉で理解する。


「アタシたち、家族になるんだよ? アタシだけじゃない。ムツキちゃんやユイちゃんだって。家庭を持って、子供を作って、孫ができて……そうやって愛を繋いでいくんだよ」


 今すぐは難しいかもだけどね。そう付け加えて、コトニは苦笑を浮かべる。


 シロの仕事は子を作ることである。それは物心がつく頃から刷り込まれたものだった。


 その一方で、子供を作った先のことを考えたことは無に等しい。考えたくない、というのが本音かもしれない。


 『いつかの未来』に思考を巡らせれば、漠然とした不安が胸の底から湧き上がる。世話役が何とかしてくれる――信頼すらも凌駕する、水のような不安が。


「……そっか、家族」


「うん、家族。あ、この場合って名字はどうするんだろうね? シロちゃんの名字、知らないし……」


「フーフベッセイになるの?」


「よく知ってるね。夫婦別姓かぁ……できればアタシは一緒がいいなぁ。不言いわぬシロ……えへへ、なんか違和感あるね」


 心底愉快そうに笑うコトニにつられてシロも肩を震わせる。


 二人静ふたりしずかシロにはなだシロ、いずれもちぐはぐに見える。やはりシロはシロのままが一番だ。


 一人で決着をつけて、ふと机を見やる。未だ熱を持つドライヤーの横たわるそこには、『書物庫』から借りて来た本が置いてある。『はじめての性教育』――性行為のいろはを知らないシロにとって、指標とも言うべき本だ。


 髪を梳く手のタイミングを見計らって、本を手繰り寄せる。飽きたと思われたのか、「時間が掛かってごめんね」と背後から聞こえてきた。


「コトニちゃんもお勉強する?」


「うえっ⁉ あ、アタシは勉強しなくてもいいかなー!」


「そっかぁ」


 ぺらりと表紙をめくる。


 内容はトモミが教えてくれたものとほぼ同じだった。男女の身体の違い、成長によって起きる様々な変化、そして子供の作り方。作り方と言っても、精子と卵子が結びつくことで受精卵ができる、程度の事柄しか書かれていない。


 むむ、と思わず唸るシロ。髪の手入れが終わったらしいコトニが、シロの腹に手を回す。後ろから抱きかかえられる体勢で読書に励む最中、半ば無意識に呟く。


「やっぱり、へにゃってなるよねぇ……」


 スゥ、とシロの耳元で息を吸い込む音が聞こえる。首筋をくすぐる吐息に思わず首を竦めると、腹に回っていた腕がいっそう強く締まった。


 再びページを捲ると、ひらりと何かが舞い落ちた。どうやら紙のようだ。紙をしっかりと二つに折り、開かないようウサギを模したシールで封止めしている。


 こんなものを挟んだ覚えはない。コトニにも確認するが、同様の反応が返ってくるばかりだ。不思議に思いつつも、シロはその紙を開いた。


 ――おなじひと、いたらへんじください。とじこめられてる。おへやからでられない。おとうさんとおかあさんにあいたい。


 かろうじて認識できる『文字』。それは悲鳴だった。同じ境遇を、両親を探す幼い声。それがシロの『あるはずのないもの』を痛めつける。


 シロには親がいない。しかしその分、鴨ノ羽トモミが愛情を注いでくれた。『お父さん』『お母さん』。ほぼ真正の代替品で満足していたはずなのに。それなのに、なぜか他人事のように思えなかった。


「……『あん』さん」


 文の末尾に書かれた差出人の名。歪ながらもしっかりと、確かな意志をもって刻まれたそれを、舌の上で転がす。


 甘そうな名前だ。


「部屋から出られない……まさか、書物庫に誰か閉じ込められているの? この本、書物庫にあったやつだよね?」


「えっ、あそこ、ご飯食べるの駄目だって書いてあったのに……!」


 閉じ込められている人は食事すら満足にできていないかもしれない。背筋が凍り付くようだった。


「た、助けに行かなきゃ!」


 本を放り出して、扉に近づく。トモミやコトニたちが退出する時のように。しかし、それはぴくりとも動かなかった。


 コトニに助けを求める。見返すのは、どこか諦めの滲む宝石。


「……朝になるのを待とう」


 今アタシたちは、ここから出られない。冷酷に、淡々と告げるコトニ。シロは目の前が真っ暗になる思いだった。

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