#15 早く愛して

 朝食を終えたシロは、宣言通りに自分の『家』へと戻っていた。


 九時から勉強の時間。その言葉に偽りはなく、確か今日は漢字の勉強であったはずだ。


 かつての日本では、シロほどの年齢になると、日常生活に支障がない程度の識字が可能になったそうだが、シロはそうはいかない。他の科目に比べて、識字の分野はひどく遅れていた。


 本棚から新しくしたばかりの漢字ドリルを引き出して、鉛筆の削り具合を確かめる。二本の先が丸い。昨晩は嫁候補たちのパーティーにお邪魔していたから、削り忘れたのだろう。


 鉛筆削りを取ろうと腰を浮かせたその時、


「シロちゃん」


「えっ、コトニちゃ――」


 どっと衝撃が走る。


 シロに馬乗りになったコトニは、赤い舌をぺろりと唇に這わせた。


「なっ、なに……?」


「何って、お勤め、するんでしょう?」


 コトニの手がシロの頬を撫でる。指先が耳たぶに触れ、そのまま感触を確かめるかのように弄ぶ。ぞわぞわとした感覚がシロの背筋を走り抜け、思わず声を上げた。


「ひあ、ぅ……まっ――」


「待てない」


 コトニの腰がぐりとシロの腰へと押し付けられる。布越しに伝わる柔らかな熱。そこには門が隠れているのだ。子の宮へと繋がる、神聖なる門が。


 いつの間に。『家』に戻った時にはいなかったのに。そう問う暇すら与えられない。


「早く愛して、シロちゃん」


 囁きを聞くや否や、シロの唇を温もりが覆った。それは唇だった。コトニの艶やかで柔らかい唇。調子を確かめるように二度、三度とついばみ、かと思えば舌先で悪戯げにくすぐってくる。


 身体の奥から湧き上がる甘くも切ない感覚が、シロの肌にあわを立てた。


「……口、開けて?」


「へぁ……んっ」


 従順なシロに拒絶の二文字はなかった。


 言われるがままに口を開くと、ぬるりとした感触が侵入する。戸惑うように半開きのままとなった歯を伝い、ゆっくりゆっくりと攻め立てる。


 初めて知る少女の味。それは甘美と言うより他なかった。朝食に食べたカルボナーラよりも八ツ時に食べるクッキーよりもずっと甘く濃く舌に絡みつく。


 所在なさげに揺れていたシロの手はコトニの指に捕らえられ、絨毯へと縫いつけられてしまった。


「ふふ、ちょっとだけスパゲッティの味がするね……きもちい? シロちゃん」


「んっ、ぅあ……!」


 シロの腿が震える。コトニの膝が、シロの股座を押し上げていた。


 男と女、両の性を持つ陰部がやわやわと、しかし加減を違えればすぐに痛みとして牙を剥くであろう倒錯的な快楽が、シロの背を走った。


 怖い。


「や、やだ、ことにちゃ……!」


 悲鳴混じりの声に、コトニは少し困ったような顔を見せる。大丈夫、大丈夫とあやすようにシロの目尻ににじんだ涙を拭い取った。


「ごめんね、痛かったかな?」


「ぁ……痛かった、わけじゃ……」


「ほんと? こういうこと、やったことなくて。だから――」


 一緒にお勉強、しよ。


 コト二の指が耳殻を擽る。首を縮めたシロは、濡れた目でコトニを見上げた。無邪気に、しかしどこか大人びた艶やかさをもって微笑む少女。コトニは再びシロの唇を覆った。


 ちゅ、ちゅとリップ音を立てながら吸い付くその様は、花に魅入られたミツバチのようだった。


 シロは合間に呼吸をするだけで精一杯だった。快楽を拾うことも、コトニの真似をすることもままならない。ただただ享受するのみで、はたしてコトニがどんな顔をしているのか――それすらも分からなかった。


 閉じていた目をこじ開けて、未だ覆い被さるコトニの顔を見やる。


 長い睫毛を憂いげに伏せたその表情は、平生の溌剌としたそれとは似ても似つかない。


 目に毒のように思えて、再度目をつぶる。自らの身体を這う温もりがより一層身近に感じられて、シロは選択を間違えたような気しかしなかった。


 コトニの手がシロのシャツを開いていく。肋骨の浮く肌を撫で、新調したばかりのスポーツブラを押し上げる。


「わあっ、ちっちゃい。かわいい……アタシもこのくらいがよかったな」


 心臓がはち切れんばかりに跳ねる。


 欄干らんかんを越えたあの夜よりもずっと速く強い鼓動。しかし、あの時とは違う。


 焦燥に狼狽、それから期待。小さな身体には余りある感情を複雑に組み敷いて、ただただ震える。


「……コトニ、ちゃん?」


「なぁに? シロちゃん」


「怖いなら、いいよ?」


 ヒュとコト二が息を飲む。その顔色はみるみるうちに青くなっていき、唇が――反論を紡ごうとする唇が、頼りなさげにわななく。


「子供は作らなくちゃだけど、今じゃなくても……トモミさんも、言ってたし。だから、そんな顔、しないで?」


 空いた右手でコトニの頬を撫でる。


 コトニは確かに熱に浮かされていた。しかし同時に、瞳の奥には激しい雷雨の日に一人ぼっちであるかのような心細さを、恐怖を宿していたのである。


 シロと同じように。


「まさか」


 そんなこと、とコトニの口角が吊り上がる。


 ひどく歪なその笑みは、すぐにガラガラと崩れ落ちた。


「っ、ほんと駄目だね……ごめん……」


 くしゃりと美しい顔を溶かした少女は、シロの服から手を抜く。


「シロちゃんが嫌なわけじゃないの。シロちゃんとなら、アタシ、子供作りたい。子供欲しい。愛して欲しい。でも……でも、ね」


 はらりと落ちる黄金色の髪。細く柔い手は、まるで大切なマグカップを割ってしまったかのように赤い頬を、濡れた瞳を覆う。


「ごめん、ごめんね、シロちゃん……やっぱり、怖いの。嫌だよね、ごめんね……」


 ひくり、ひくり。嗚咽を上げ始める少女。それを見上げるシロはただただ戸惑っていた。


 コトニとの睦みは決して嫌ではなかった。


「嫌だなんて、どうしてそんなこと言うの? ぼくは好きだよ。ええと……せ、接吻? 気持ちいいし、ふわふわして幸せな気分になった」


「でも意味ないでしょ?」


 子供ができなければ意味がない。シロとコトニ両名に与えられた使命とは次世代に子を残すことであり、親睦を深めることではない。


 非情に述べるならば、シロたちの行為は『失敗』であった。


 だが、とシロは唾を飲む。意味がなくても意味がある行いは存在する。それがトモミより教えられたことだった。


「えっと、えっと……じゃあ、ぼくたちの性行為は接吻にしよう!」


 たとえその教えが、飛躍して伝わることになったとしても。


「アリなの? それ」


「えっ。……分かんない」


 多分大丈夫だとは思うけど、と目を伏せると、シロは自分の腹が揺れていることに気づいた。


 先程の嗚咽とは異なる揺れ――面を上げれば、そこには肩を震わせるコトニがいた。


「あはっ、分かんないって何?」


「へ、変だったかな……?」


「うん、変!」


 ツキリと胸が痛む。何がどう『変』なのか、シロは微塵たりとも理解できずにいた。だが先程までの陰鬱とした気配は鳴りを潜め、いつも通りのコトニの姿がある。それだけで収穫だった。


「ぼく、ちゃんと待つよ。いつか性行為はしなくちゃだけど、コトニちゃんが怖くなくなるまで待つ。だから一緒にがんばろう?」


「……シロちゃんは優しいね。待ってくれるんだ」


 しみじみと呟く少女。その言葉裏に何が隠されているのか。不思議に思いつつも、シロはただこくりと首肯する。


 コトニは目を細めて、シロの肩に顔を埋める。


「ありがと、シロちゃん……」

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