#11 無知と罪

 不言コトニと二人静ムツキの二人と、気が済むまで『人生ゲーム』をやり倒したシロは、ようやく一息ついた。


 夕食に呼ばれてもなお切りがつかず、縹ユイが冷え冷えとした顔で呼びに来たことは記憶に新しい。


 当時の顔といえば、まるで世話役の生き写しのようで、恐れおののく嫁候補二人を尻目に思わず微笑んでしまった。その表情も、ユイの一瞥によりすぐに押し込まれることになったのだが。


「……ふふ。楽しかったなぁ。今度はユイさんとも一緒に遊びたいな」


 肩を揺らしたその時、シロの耳は小さな音を捉えた。それはコツコツと不規則に窓を叩いている。


 目をぱちくりとさせたシロは、読んでいた絵本を置いて、好奇心に導かれるままに立ち上がった。


「ムツキちゃん?」


 桃色のカーテンを開いた先にいたのは、二人静ムツキだった。いつも通りのスウェット姿にサンダルという軽装でベランダに立っている。


「さっきぶりだね。こんなところで、どうしたの?」


 答える声はない。声が聞こえないのだろうか。


 首を捻るシロに、ムツキは何やらジェスチャーをしてみせる。ベランダへと繋がる扉――生まれてこのかた開いたことのない扉を示している。


「あ、開けるの? で、でも、そこは駄目だって……」


 シロはへにゃりと眉を下げる。それに応えるかのように、ガラス越しのムツキも眉尻を下げた。入れてくれないのか――そう責めているように感じる。シロは迷いに迷った末、指示通りにガラス戸を触ってみることにした。


「いやいや、扉一つを開けるのに五分もかける? 流石に絶句ものッスわ」


 文句を口にしつつ、夜風とともにムツキが入り込んでくる。


「だ、だって、開けたことないんだもん……」


「てことは、ベランダにも出たことない? はー、宝の持ち腐れ……せっかく綺麗な植物園に面しているんですから、活用しましょ」


「植物園?」


 そうシロが目を瞬かせると、ムツキはベランダの向こう――『庭』を指差す。ようやく合点がいったシロは頷いて、本題へと切り出した。


「ムツキちゃん、どうやって『庭』から来たの? もう夜だよ?」


「何、夜にやることと言ったら決まっているじゃないッスか。夜這いッスよ、夜這い」


「ヨバイ?」


 にやにやと目を歪めていたムツキだったが、シロが首を傾げると、気抜けした様子で視線を逸らした。


「そうだった。こいつ、語彙がピュアだった。ま、冗談はさておき。シロちゃんに悪いことのお誘い」


 目を丸めるシロ。その手を掴むと、ムツキは歩き出した。


 向かう先はベランダ――つい先程、ムツキが現れた場所だった。はとしたシロはぐっと足に力を込める。


「だっ、駄目だよ! ベランダは出ちゃ駄目……!」


「なんで?」


「だって、トモミさんが――」


 トモミが言ったのだ。ベランダには出るな、と。時折やってくる小鳥や猫をガラス越しに眺めることはあってもそれに近づくことはなく、ベランダの掃除のために扉が開け放たれていても一歩たりとも踏み込んだことはない。


 ちらりと背後を振り返る。トモミが出入りする、両開きの扉。そこはぴたりと閉じたまま開こうとしない。悪事へと踏み行くシロを引き留めるつもりはないようだ。


 シロは喉を鳴らした。


「ちょ、ちょっとだけ、だよ……?」


「ん、いい子。いや、悪い子――かね」


 にんまりと顔を歪めるムツキは、絵本で見るいじめっ子のようだった。


 初めて踏み出すベランダは、ひどく堅かった。スリッパ越しに感じるタイルはまるでシロを受け入れず、それどころか身の縮むような冷気を放っている。お前はここに来るべきではない――そうさとしているかのようである。



 ふと前方から声が聞こえてくる。ムツキはシロの手を取ったまま、ゆらりと振り返った。その様は風に吹かれる木の葉のようだ。


 コトニの完璧すぎる容姿とも、ユイの凛然とした雰囲気とも、トモミの溶かすような抱擁感とも違う、その出で立ち。それは不完全と軟弱と共感を覚えさせる、ひどく親近感のある姿だった。


「上、見てごらん」


 見上げた天井。そこには、無数の光が瞬いている。初めて見る、『本物』の夜空。窓越しでも空中にホログラムで再現されたものとも違う。違う、真っ暗闇を脆弱に照らす希望のような光。


 人々がなぜ空を見上げて名前と物語を作ったか、分かるような気がした。


「わあっ、すごい、星だ!」


「……そうッスね、星ッスね」


「お家から見るよりずっと大きいよ!」


 欄干らんかんから身を乗り出すあまりに揺らいだ身体を、ムツキが優しく受け止めてくれる。


「何億年と掛けて作り上げてきたものを、ほんの一瞬で再現しちまうんだから、人類ってのは罪深いッスよね」


「……そう、なの?」


「そう思わないッスか?」


 ぱちくりと、シロは目を瞬かせる。長い横髪が顔を隠し、ムツキの表情は読み取れない。しかし何となく怒っているような気がして、シロは首を竦めた。


「ごめんなさい」


「なんで謝るんスか。シロちゃんはなーんも悪くないッスよ。むしろ怒る側だ」


 微かにムツキの視線がシロを撫でる。先程までの剣呑とした雰囲気は鳴りを潜め、少し小馬鹿にするような、あるいは諦めを孕むような、痛みを湛える笑みを浮かべる。


「無知は罪。しかし無知が仕組まれたものだったら? それは本人の罪と言えるだろうか」


「また難しい話?」


「難しいけど、小生からしてみれば簡単な話ッスね」


 悪戯げに笑って、ムツキは小首を傾げる。


「ムツキちゃんはすごいね。何でも分かっちゃうんだ」


「何でもって。……まあ、シロちゃんよりは人生経験豊富かも。けど、シロちゃんも遅くないッスよ。昼間に話した家族や結婚のことも、あの星のことも。これから学んでいけばいい。それで、『自分』について改めて考えてみな」


「『自分』を?」


 今度はシロが首を傾げる番だった。


 それからは静寂が続いた。瞬く星空を見上げて、ふと思い出したように世間話をする。何てことはない、世話役とも過ごしたような時間なのに、隣にいるのがムツキというだけで特別な時間のように感じる。


 この時間がずっと続けばいいのに。そう思ったのも束の間、身体をぶるりと寒気が走り抜けた。


 室内と比べると少しだけ風の吹く外。このままではムツキも風邪をひいてしまうだろうと、シロは腕をさすりながら言った。


「星、見せてくれてありがとう。すごく綺麗だった」


「おっと、なーに勝手に終わろうとしてるんスか。今日のメインイベントはここからッスよ」


 そう意地の悪い笑みを浮かべたムツキは、シロの唇に人差し指を押し付けるのだった。

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