#10 キライなんです
赤褐色の地面に五つのレーンが敷かれた、今は貴重な競技場。
まっすぐに走ることを許されたその場所で、スターティングブロックに足を掛ける。
白線に指を添えて、ぐっと腰を押し上げて――しかし、未だ足に馴染まないスターティングブロックに軽く舌を打った。
スポーツの一種目、陸上の基本は姿勢にある。しかしながら、スポーツ文化の廃れた現代において、ユイが触れてきたものは野生同然のものであった。荒れた野原を舞台に、本と伝承者の断片的で前衛的な知識を組み合わせる。こんなにも整った施設など、あるはずがない。
この場所で走ること。それは至極贅沢なことだ。ひょっとしたら、生きることよりも。
「シロちゃんとは話してくれないのね」
「
背後から聞こえてきた声に、ユイは立ち上がる。そこには白衣に見を包んだ鴨ノ羽トモミが悠然と構えていた。艶やかな黒髪に無機質な光が照り返る。
見られていたのか――ユイは気恥ずかしい気分になった。
「私は、子作りが目的ではないので」
「よかったわね、集音マイクが切ってあって。筒抜けだったらあなた、もうここにはいないわよ」
「…………」
じっとトモミの目を睨み上げる。彼女はフと溜息を吐くと、
「ここまで反抗的なのはあなただけよ。忘れたわけではないわよね、なぜここに集められたか」
「……シロちゃんの子を宿すためでしょう。そのために大金を得て、代わりに肉体を差し出した」
ユイの家は決して豊かではない。家には隙間風が吹きすさび、今日の生活にすら困窮するほどだ。そのような中でユイが『卵』として選ばれたのは、不幸中の幸いであった。
「ぶくぶく太った汚らしいおじさんを想像していたけど……予想外でした。噂の両性具有が、あんなにかわいい子だったなんて」
「当然でしょう」
「シロ。文字通り、真っ白の子でした」
シロ。そう紹介された少女は、ユイよりも小柄で弱弱しく、風に吹かれようものならすぐに飛んでいってしまいそうだった。おまけに自分で着替えることすらできない寄生体質ときている。
彼女の行き着く先は、間違いなく飼い殺し。数少ない救いと言えば、飢えや凍えに苦しまなくてよいことくらいだろうか。
貧しいながらも自由を――空の下を駆け巡り、数多の光景を目にする自由を与えられてきたユイからしてみれば、あの両性具有の生き様はひどく息苦しい。
「これが、正しいんですか?」
見下ろすトモミの眼光は鋭い。鋭く、冷えている。冷徹で冷酷で、しかしどこか諦念した様子の目。
幾度となく問われてきたのかもしれない。遺伝子と出生の管理――この『施設』に携わるにあたって、倫理の問題はおそろしく身近だ。
優生遺伝子活用計画を構築し、実行に移されてから早七十年。市井でも研究室でも、もうとっくの昔に『解決』とされた問題だが、トモミの目には迷いの残滓がある。
「正しいも何も、あなたはそうやって生まれて来たの、縹ユイ。両性具有、あるいは優秀な男性から採取した精子を培養し、優秀な女性の卵子とドッキングさせる。研磨して研磨して研磨して、そうして生まれた優秀な子。それがあなたであり不言コトニであり二人静ムツキであり、そしてシロである。誰でも自由にポンポンと、不出来な人間を生み出せた過去とは違うの」
温暖化に次いで訪れた寒冷化現象。一年の半数を雲に包んだ空が人々の営みを奪ったあと、人類は効率化を求めた。よりよい遺伝子を残し、劣った遺伝子を淘汰する悪魔の果実を育て始めたのだった。
「自然交配を許されたのはとても光栄なことなのよ、縹ユイ。契約通り、着床を認めれば報酬を追加する。それまでの自由も施設の貸し出しも許可してあげる。これに、一体何の文句があるというの」
『外』にあれば明日には散るかもしれない命。それが温かな寝床で眠れて温かな食事が摂れて、終いには子供を残すことができる。
生き物として、これ以上はない幸せであろう。しかし――。
「子供、キライなんです」
もう増やさなくていいでしょ。
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