己が内に眠る零



 部屋全体に充満する臭いは……腐敗臭か。あまりの気持ち悪さに胃の中のものを全部吐き出しそうになってしまった。咄嗟に月喰さんの谷間に逃げなければ、それこそ恐れていた事が起きていただろう。こんな異臭の中でも、月喰さんの匂いは意識を全て委ねたくなる程に香しい。


「坊、にわかに我へ飛び込むとはらしくもない。どうした」


「…………フハァ。臭いがキツイです」


 谷間が深すぎてまともに喋れない。少しだけ離れてから動機を説明すると、月喰さんの着物の袖から液体状の獣(顔が寅で身体が白蛇のキメラ)が落下。謎の生物は空間に沿って素早く何かを食べ終えると、スルスルと彼女の袖の中へ戻っていった。


「……今の何ですか?」


「臭いを消しただけだ。これで坊も息が出来よう」


「いや、そっちじゃなくて。今の化け物ですよ」


 気になったので彼女の袖に腕を突っ込んでみた。しかし何処まで遡っても先程の化け物には当たらず、何処をどう触っても月喰さんの腕しかなかった。本人に尋ねても延々とはぐらかされそうなので、気を取り直して部屋の捜索をする。


 だが正直言って何も触りたくない。特に髪だの血だの爪だの、人間に由来する物にどうして触りたいと思える。生ごみといい勝負だ。臭いがなくても視覚的に嫌な物は嫌なのだ。


「ちょっと! 早くッ、私を……解放しなさいよ!」


「ここでお前はメアリに力を渡したんだな」


「それに答えたら解放してくれるのかしらッ」


 ここで周防天畧を解放した時のデメリットを考えてみよう。俺は散々彼女に生意気な口を利いた。自由の身となった彼女は真っ先に俺を殴ろうとするだろうか。しかしそんな事をすれば月喰さんが彼女を許さない。そして『力』を失った彼女に抗える道理はない。


 コイツの事は大嫌いだが、また廃人にされて一生月喰さんへの嫉妬に狂わされるよりはそのまま放置しておいた方が救いがあると思う。


「嫌だ」


「なッ……じゃあ絶対に教えない!」


「まあいいよ。勝手に調べるし」


 まず儀式と一口に言っても様式や使用物によってその種類は変わってくる。あんまり詳しくないが、人由来の物を使っているという事は呪術の類だろうか。女の髪は呪いの依り代として優秀だとか何とかテレビでやっていた気がする。しかし呪いで……自分の力を移せるのだろうか。これ以上は本職の人間……もしくは怪物に聞くか。


「月喰さん。呪いで神の力は移せますか?」


「穢れた力では無理だ……と言いたいが、望まぬ結果を承知の上なら不可能ではないな」


「望まぬ結果?」


「器の心に重大な欠陥を齎す可能性があるのだ。抗うにはそれこそ坊の様に異常な自我の強さが必要になるな」


 等と彼女は言っているが、俺にそんなものはない。彼女がその気になれば俺など五秒ともたず陥落する。耐えられる人間が居るとしたらそいつはきっと人間を辞めているに違いない。例えば、メアリみたいに。


「……アイツも、心が壊れた結果ああなってるんでしょうか」


「メアリの事か? それは我には分からぬな。だが……まともではないだろうな。トコヤミは本物でなくとも、神には違いない。その力を全て捻じ伏せた結果がこれだが、それでも全く影響がないとは考えられんな」


「メアリの心が歪んでいると?」 


「それが自然の道理だ。そこな雌も力が抜けた後だというのに歪みが治っていない。器にも相応の才覚が求められるという事を知っておいた方がいいだろう」


「ふーん。でも現代でそういう人間って絶滅危惧種だと思いますけどね。今はもうそういう時代じゃありませんから」


 時代にそぐわない事はやるべきではない。世界を支配しているのは科学であり、それ以外の対抗勢力が生まれてはならない、今はそんな時代だ。周防メアリはその当たり前から脱却し、争い一つ起こさず全てを掌中に収めた。


 とうの昔に忘れられた神の力を以てして。


「……あれ」


「どうした、坊」


「いや、こんな所に日記なんてありましたっけ」


 俺の視線は方陣の中心―――規則正しく並べられた鉄の杖の中に一冊だけ置いてある白い装丁の鎖付き日記。こんなものが最初からあったなら部屋を発見した時点で気付いていた筈だが、少なくとも俺は気が付かなかった。



 ―――白い?



 俺がメアリの過去を知る為に呼んでいた日記は全て黒い装丁の日記だった。莢さん然り、對我さん然り。しかし莢さんはメアリが過去を知られるのを嫌っていたと言っていたし、そう何冊も日記があるとは思えない。二人が持っていたのは周防家と距離が近かったからで説明がつくが……(莢さんも對我さんもメアリを救ってほしいという独自の考えを持っていたので、隠し持つくらいはするだろう)。


 そもそもシチュエーションが似ているだけで全く別の人間の物かもしれないという予測だけは脆くも崩れ去った。日記の裏側に『周防芽在』と書かれている―――漢字表記ッ? アイツの名前に漢字なんてあったのか?


 この日記だけは明らかに様子が違う。恐る恐る手を伸ばして取ってみる。鎖が存外に重い以外は何の変哲もない。


「天畧。この日記に見覚えあるか?」


「はあ!? 見覚え……あったとしても教える訳無いでしょ! それよりも早くこれを解きなさい!」


「はぐらかしたって事は見覚えないんだな」


 ぎくりと天畧が硬直する。分かりやすい反応だが、元凶さえも知らぬ日記とはどういう理屈なのだろう。今までの日記とは装丁も違えば名前の表記も違う。全くの別人という可能性は発見した部屋的にも考えにくいし、メアリの物なのは間違いないだろう。



 …………何で『メアリ』になってないんだ?



 周防メアリの世界征服により、この世界の殆どはメアリになってしまった。空もメアリ、地面もメアリ。水平線もメアリ、家もメアリ、雲もメアリ。メアリメアリメアリ。影響を受けてないのは空花達と俺と月喰さん……そして天畧。それ以外は無機物さえもメアリになっているのだが、この日記はまるでそれさえも拒絶しているかの様に燦然と輝き、誰かに読まれたがっている。鎖で何重にも縛られている癖に。


「月喰さん。この鎖切ってもらえますか?」


「坊の頼みとあらば吝かではない……が、坊の選択次第では後悔する事になるやもしれん。それでも中を視るか?」


「嫌に思わせぶりな事言いますね。大丈夫ですよ。後悔なんて最初からずっとしてます。メアリと同じ幼稚園に入った時からずっとね」


 いっそ開き直ってしまった俺に対して月喰さんは何も言わずに鎖を解いた。地面に触れた鎖が灰となって降り積もる。最早その程度の現象、驚く価値もない。


 日記を、開いた。












『四月 二十一日


 私の中のカタチを止める為に、あの子を利用する事になった……あの子に嫌ってもらえる様にあらゆる手を尽くす。あの子は私の事、大嫌いだって言ってる。順調、このままいけばカタチに勝てる! クソババアに思い知らせてやらないと! 



 六月 二日 


 順調。とにかく嫌わせる行動をすればいい。あの子が幸せそうにしてる時間を奪って、全部私を憎む時間にすればいい。そうしてもっと私を視て。見てくれなきゃ勝てないの―――でも何だろう。あの子に嫌われたと実感する度に。なんか、おかしい。



 十二月 三一日


 クソババアと過ごしたくない。私の事を好きな人間とは過ごしたくない。祝日なのにちっともめでたくない。せめて祝日だけは楽しみたい。誰か私の事嫌いな人間居ないかな。そうだ! あの子の所へ行こう!



 二月十四日


 チョコをあげたら突き返された。私の顔なんて見たくもないって! カタチはまだまだ私を蝕もうとしてくるけど、もっと嫌ってくるからもっともっと早く勝てるよね! …………あれ。



 四月一日


 クソババアが何かしたのかな? なんか、とっても変な気分。私はあの子に嫌われなきゃいけないのに、嫌われる度に胸の辺りがとても痛い。試しに嫌がらせをやめてみたらあの子の笑顔がちょっとだけ戻った。カタチは力を取り戻したけど、不思議と胸は痛くない。どういう事なの?



 八月十五日


 あの子と関われない時でも、私の頭からあの子が離れない。それだけ私もあの子を嫌ってるって事でいいんだよね? あの子も私を嫌ってるから、それが正しいんだよね? でも嫌いってこんな感情だったっけ? 私はもっともっとあの子と一緒に居たいんだけど。



 八月十六日


 話を聞いてたら、あの子、お化けが見えるらしいね………………ちょっと、勉強しようかな。お化けに興味があるって言ったらあの子、話に乗ってくれるかな。 



 八月三十一日


 あの子と仲良くなりたくて心霊スポット行ったのに、何か嫌われちゃった。あれ? おかしくない? 嫌われる結果になったなら喜ぶべきじゃない……? あれ? おかしいな。私、嫌われたいんだよね? 何で喜べないの。



 十月九日


 クソババアは私を好きだって言ってた。あの子以外の子も私を好きだって言ってくれる。でもそれは全く嬉しくない。当然の話で、好きって感情はそれくらい薄っぺらいって事なんだけど…………けど。



 十二月二日


 私はずっと嫌われ続けてる。当初の計画から何のイレギュラーも無く進んでる。喜んで良いのに喜べない。最近、気づいた事がある。私は、あの子に嫌われたくない。もっとあの子と色々なお話してみたい! でもそれは……絶対に出来ない。だってあの子が少しでも私を好きになっちゃったら、私の事なんか見てくれないと思うから。でも、それでも…………でも。



 一月一日


 誰か教えて! 私には分からない! 嫌われなきゃいけないのに、憎まれなきゃいけないのに。そこにいるだけで殴られてしまうくらい嫌な奴にならなきゃいけないのに、私はあの子と色々話したいし、一緒にご飯食べたいし、一緒に遊んでみたい! 一緒のベッドで寝たい! 分かんないよ……何なの、この感情。辛いよ、痛いよ。誰か教えて、教えてくれないと困るの。だって私は―――あの子に嫌われないといけないのに」



 三月八日


 私はあの子が『好き』なの? いや、そんな筈ない。だって『好き』ってのは関心が無いって意味で……でも『嫌い』ってのも、違う。私はもっとあの子と接したい。じゃあ『好き』って何なの? クソババアは私を『好き』って言ってたけど、それが『好き』でいいんだよね? ねえ、誰か教えてよ! 教えてよ!



 四月二六日


 私、もうこれ以上嫌われたくないよ。あの子に敵意を向けられるだけで涙が止まらないよ。これは何なの? 私がおかしいだけ? だって私、嫌われないといけないのに。カタチはしぶといから、まだ勝てない。だからもっと嫌われないといけないのに、嫌われたくないっておかしくない? お化けの事なんかまるっきり興味ないのに、あの子の為に勉強したのに。何で嫌われないといけないの? 嫌われたくない……あれ? でも嫌われるのが私の作戦だったよね。でもやっぱり、喜べない。




 助けちゃった! 間違えた、こんな事するつもりなかったのに。あの子の憎しみが少しでも薄れたらだめなのに! あの子に感謝されでもしたら今までの積み重ねが全部水の泡になっちゃうかもしれないのに! 私の馬鹿、馬鹿野郎! カタチに呑み込まれたくないから始めたのに、自爆してどうすんだよ! でも助けられて良かった。あの子、次の日までに元気になってると良いけど。




 何もかも予定通り。誰にも気づかれてない。じゃあどうして私の心は満たされないの? カタチは抑え込めてるのに、心が欠けてくみたいな―――




 私を信じてる愚かな人間は全員私が好き。ちっとも嬉しくない。あの子が私を好きになったら―――私を求めてくれたら。あの子から私に話しかけて来てくれたら。凄く嬉しい。相手を本気で『嫌わせる』なら私も本気で嫌わないといけないのに。おかしいな。私はあの子を何だと思ってるの?




 気づいちゃった。私はあの子が『好き』なんだって事。クソババアのとは全く違う意味で、そして本来の意味で。でももう手遅れ。私はもう随分と順調に計画を進めちゃった。今更取り返しなんてつかない。あの子の想いはどうやったって、もう『嫌い』以外には振り切れない。だって私がそう仕向けたんだから、文句は言えない。私を嫌って、視てくれて、これ以上何を望むと言われて『好き』になって欲しいというのは虫が良すぎる話だ。だって私、彼に何もしてない。彼に好きになってもらえるよう努力してない。だから好かれる資格はもうとっくの昔に失われてるの。昔の自分が定めた通り、嫌われ続けるしかない。カタチはまだ生き残ってるから。




 創太君、創太君、創太君、創太君、創太君! 創太君! 創太君! 私、貴方の事しか考えられないよ。貴方に夢中になってもらいたかったのに私が夢中になってるなんて面白いね! あはははははは。




 創太君と同じ高校! やったー! でも、私のやる事は変わらない……………変えられない。




 最近、創太君が明るくなった。それだけじゃない。私への興味が明確に薄れたのを感じた。このまま何もしなかったら貴方はきっと遠くへ行ってしまう。ならどうすればいいかなんて決まり切ってる。もっと嫌われる様にすればいいだけ。もっと過激に、逸脱したアピールを。


 だってもう、それしかないんだもん。クソババアの『好き』は本来の意味とは全く違うものだった。そして愚かな人達の『好き』もそう。本当の私を視てくれるのは貴方だけ。だからもっと視て、ずっと視てて!


 …………何でもするから、私の事忘れないで?       』





 果たしてこれは日記なのだろうか。三点リーダの多様、ダッシュの使用等、あまりに日記らしくもない文調ではないか。まるで読者が居る事を想定している様な書き方……否。これはもう、心の中のグチャグチャな思考をまんま日記に映した代物だ。そうでなければ不自然すぎる。本人が書いたにしては、あまりに遊びが過ぎる。


 その点を抜いたとしても日記の内容は以前二冊までとまるで違う。強気で反骨的だった二冊の対極に位置する様に、この日記には自己矛盾で疲弊しきった心情がつづられている。それに以前二冊は完璧少女が書いたと言われれば疑いようもないくらい綺麗な字で描かれていたが、こちらはページをめくる毎に字が不安定になっていく。最後のページはとてもとても読めたものではない。全ての字が繋がっていて濡れていてぐちゃぐちゃだ。


「これ―――月喰さん」


「む?」


「俺の知らないメアリがなんか……え、何か全然違う事が書かれてるんですけど」


 彼女は大きくため息を吐いて、俺の額を指で押した。


「だから我は言ったではないか。己が内の感情さえ分からぬ無垢な雌に劣る我ではないと。それとも敢えて言わねば理解出来ぬか? 察せ」


「これ、でも…………ええ? じゃあ何であんな所に―――」






「呪いとは継続的なものだ。陣が消されてない以上、周防メアリとあの陣は未だ繋がっている。出ても不思議ではなかろう、トコヤミの力と共に捻じ伏せた己の真意が」



 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る