美しき嫁



 何故アイツは、俺を殺さないのか。こんな事になってしまうなら、いっそ殺してくれれば良かったのに。


 地面に両手を広げて寝転がったまま、動かない。そんな気力は湧いてこない。世界が『メアリ』に変質してしまった。俺はアイツとの勝負に負けたのだ……いや、そもそも勝負になっていたのだろうか。俺達は果たして同じ土俵に居ただろうか。一方的に弄ばれ、蹂躙され、捨てられた。そちらの方が表現としては正しいのではないだろうか。


「……誰か」


 雲はメアリの頭部。空はメアリの一枚絵。住居は十倍スケールのメアリで、住民は等身大のメアリで、地面はメアリの形作るパネルで、壁はメアリの落書きが浮遊した状態。鏡はメアリのドアップで、反射する景色もやっぱりメアリ。メアリじゃない物が何一つとして存在しない。媒体を通して本人が映っていただけの過去がマシに思える。


「…………助けてくれ」


 メアリになれた人々は狂喜乱舞している。これがアイツの望んだ世界平和の形なんて馬鹿げてる。ふざけてる。でも、最早どうしようもない。『視る力』を奪われてしまった俺に何が出来る。喧嘩は素人に毛が生えた程度の強さ、頭も天才的とは言い難い上に、人脈も無い。そう、何も出来ない。タワーと化したドームから突き落とされてしまった瞬間から、檜木創太は用済みになった。何の力もない、何の強さも無い。只、この世界で唯一メアリじゃない人間というだけ―――



 そんな保障、何処にある?



 あの嘘つきの事だ。俺もメアリになっているかもしれない。体つきに変化はないが、果たして顔はどうだろうか。鏡は最早その機能を果たす気が無い。映るのはメアリだけで、それ以外は何も映らないゴミだ。


「空花でも莢さんでも幸音さんでも誰でも良い! 誰か俺を助けてくれえ! こんなんじゃ家にも帰れないし……山なんて行きたくもない!」


 俺の愛した黄泉平山はメアリの群生地と化している。あんな所に足を踏み入れたが最後発狂間違いなしだ。だから何処にも行けない。今立っている場所だけが俺の居場所。何処もかしこもメアリに居られちゃ方向感覚が狂っても仕方がない。


「アイツの顔なんて見たくもないんだ…………やめてくれ。やめてくれ………………これ以上、虐めないでくれ…………!」


 見たくもないものなんて見なければいい。それが可能ならとっくにそうしている。目を瞑っても瞼の裏にメアリが居る場合はどうすればいい。目を潰してしまえばいいのか? しかし潰したら見えなくなるという保障はないだろう。もしそれでも見えるようなら潰し損だ。


「………………」


 双眸から涙が零れる。ありとあらゆる物質のメアリ化は決して誇張表現などではない。唯一の例外と思わしき俺も、体内の分泌物はメアリになっている。出血したら大量のメアリが出てくるのだろうか。


 どうやったってメアリが視界から消えてくれないので、直に俺は思考を放棄した。そして放棄した以上、再び手に戻す時は訪れないだろう。メアリに染まらぬ姿を持った人物を見つけない限り―――命様を取り込んだメアリに染められない物があるとは思えないが。―――は。 








 ―――コッ。








 事実上の廃人となってしまった俺に変化が訪れたのは一時間後の事。やけに響きの良い音が俺の意識を引っ張り上げた。靴さえもメアリとなったこの世界ではまず聞こえない(靴メアリは歩くたびに喋る)音に、釣られて視線も引っ張られる。



 俺の目前には、朱い蝶々が漂っていた。



「…………?」


 メアリばかりのこの世界に、メアリじゃない蝶々。普通じゃない。見た時こそそれが何なのか分からなかったが、一度は捨てた思考を取り戻していく内に段々と思い出してきた。



 ―――コッ。



 これはメアリじゃない音―――ではなく、下駄の音。前方から聞こえるが、あからさまには見たくない。だって周りにはたくさんのメアリが居るから。メアリが居ない場所など無いから。


「坊」


 俺の事をそんな風に呼ぶ人間―――否、存在を一人しか知らない。現代人はまずもって古風な言い回しはしないし、現代的な価値観で言えば坊や扱いされる程の年齢でもない。俺をそんな風に扱う奴は―――


「我を無視か。良い度胸だ。しかし迂闊であったな。我と契りを交わしたのは何故か? 助けてやろうという契りを交わしたきりで行使せんとは、甚だ愚かだぞ」


 目を伏し、極限までメアリを仕入れる情報を絞っていた。前を向けばメアリが居ると、そう信じていたから。


 俺の心を読んだのか、彼女が慈愛に満ちた声で揶揄う様に囁いた。


「我が小娘の姿に被られる危惧をしているのか。本来理屈は不要なれども、貴様を安心させる為には語るしかあるまい。敢えて言えば我は魔性そのものであり、雄を知り尽くした色欲の獣よ。己が内の感情も分からぬ無垢な雌に劣る我ではない。故に、見よ」


 『それ』が至近距離まで近づいてくると、奇妙な匂いが俺の鼻をついた。決して嫌なものではない。多かれ少なかれ男であれば誰もが持つ煩悩を擽る匂い。完璧なる少女の仕業で腐食させられた心にはあまりに強すぎる刺激。不信と絶望に満ちている俺でも耐えられなかった。男である限りは絶対に耐えられないだろう。その香りは既に肉体を知り尽くしている。



 俺の前方には、着物を開けて臍から胸の谷間までを惜しむ事なく見せつける銀髪の美女が立っていた。



 スレンダーなメアリとは対照的にその肉体は何処をどう切り取っても煽情的且つ肉感的で、控えめに評価しても人間離れしている。


 それもその筈、彼女は人間ではない。空花の二回り以上はある乳房もそれを証明している。


「―――月喰、さん?」


「うむ。貴様の嫁であり、そして貴様は我の婿だ。遠慮は不要、近う寄れ」


 月祭りが開催されない限りは出てこない筈……そんな疑問は一瞬にして吹き飛んだ。一度は思考を放棄させた男が二度目を躊躇う道理はない。坊の呼び名に恥じぬ素直さで、欲求に従って彼女を抱きしめた。




「月喰さん!」




 幽谷とさえ表現しても物足りぬ谷間は得も言われぬ柔らかさを持っている。体をこすりつけても、息苦しさから呼吸が荒れても彼女は文句一つ言わない。紅白色の着物の中でずっと俺を抱き留めている。


「貴様が一度も我を頼らぬから、遂には出向いてしまったではないか。罪深い男だ、坊は」


 清華の事と言い、つかささんの事と言い、色々な事があったせいですっかり気が動転して、頼るのを忘れていた。あの時頼れていれば状況は変わったかもしれないが、或は忘れたままだった方が良かったかもしれない。メアリはどうやら俺の背後に居る存在が命様だけだと思っていた様だから。


「フー! フー! フー!」


「ん? そうか、我の乳房は極上か。喜ばしい事に坊の物だ、幾らでも浸って構わぬ。我は色欲の獣に過ぎぬが、一度選んだ婿を邪険にはせん。今や我の子宮を疼かせる事を可能とするは坊だけなのだからな」


 月喰さんは着物の下に何も着ていない。事実上、俺は全裸の女性と抱き合っている事になる。気持ちいいし、嬉しいし、何よりメアリじゃない! ずっと、いつまでもこうしてくっついていたい。あんな奴に心を乗っ取られるくらいなら、この蠱惑的な魔性に身を委ねた方が遥かにマシだ。


「……ククク。まるで赤子だな。坊との赤子であれば何千と産みたいが、坊自身が赤子になってしまうとは……我は嬉しいぞ。我と共に淫靡な沼の底で乱れ続ける事を決心してくれたのだから……とはいえ、今は事が事だ。坊との楽しみは後々に取っておくとして、今は戻ろうではないか」


「……フー!」


「何処に、と? 闇祭りの場に決まっているではないか。トコヤミの力とてあそこには手出しが出来ない。まずはそこで坊の心を落ち着かせなければな。―――ん? ああ、気にするな。トコヤミの力を持つ者は我の力を使いこなせん。間もなく我の下へと戻ってくるから、それを改めて坊に与えてやればいいだけの話だ」


 今はこの温もりが、何よりも愛おしい。


 

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