一日目
俺の部屋。その言葉は間違いじゃない。間違いなくここは俺の部屋だ。家具の配置、棚などの内容物、窓の向き、扉の位置。何処一つとっても俺の部屋以外の何物でもない。だが何度か遊びに来たメアリなら完全記憶程度は訳無いだろうし、そこはまだいい。問題はそれ以降だ。
「…………」
周防メアリが俺に執着している事は知っている。『視る力』以外の全てを持つ彼女が、それを持つ俺に拘るのは特別不思議な話ではない。だがこれ程とは正直思わなかった。
部屋全体に張り巡らされた『俺』の写真。メアリと出会った幼稚園児の頃から現在に至るまで、一枚一枚丁寧に張り出されている。その数は気持ち悪いなどという次元をはるかに超えており、日付順に並んでいる所から見ると恐らく十一年間分(メアリと出会ったのは五歳の時だ)の俺の写真だ。一年が三六五日として十一年……大体四千日。つまりこの部屋には、四千枚の俺の写真が存在する。
「…………………………いつ撮った」
驚くべきは、それら全ての写真に共通点がある―――必ずベッドに視線が向いているのだ。どんな角度に貼り付けられた写真も、視線を辿れば必ずベッドを向いている。厳選している様には思えない。ご丁寧に写真には日付まで書かれており、そこに抜けが全く見当たらないのだから。
「これ写真じゃないよ。スケッチだよ」
「は?」
「だから、スケッチ。私の記憶を頼りに私が描いたんだ。写真みたいにするのは苦労したけどね」
メアリの話が何も耳に入ってこない。最早気持ち悪いを通り越して…………何なのだろう。触れてはいけないものに触れてしまった―――そう、禁忌を犯した感覚を覚えた。俺が理解してはいけない世界、或は深淵。覗き込んでしまったのかもしれない。
旧き恐怖を。
「それでね、創太にやってもらいたい事があるんだけど」
「……断る!」
「この画と一緒に一日中私を視ててくれない?」
「断る!」
何を頼まれても俺の返事は変わらない。こいつにはこれ以上触れない方が良いと本能が警鐘を鳴らしている。俺はきっと英雄になりたかったのだ。訳の分からん奴を打倒出来たらさぞちやほやされるだろうと錯覚していた。
違う。こいつは触れて良い存在じゃない。妖怪なんぞより遥かに悪質で、深く黒い怪物だ。今までも理解を置き去りにしてくる事は多々あったが、今までの比ではない。こいつは信者の手前加減していただけに過ぎないのだと知った。こいつは俺の前でだけ仮面を脱ぐんじゃない。俺の前で脱ぎたかっただけなのだ、きっと。しかし己が特性故に信者が傍に居るから、それが出来なかった。
どうして気付けなかった。これでは飛んで火に居る何とやらだ。むざむざ仮面を安易に脱げる場所にやってきて、俺は何がしたかった? コイツの異常性を見てダメージを受けただけじゃないか!
「俺、もう帰るからな! お、おま、おまえ……こんな気持ち悪い部屋、に、二度と見せんな!」
「気持ち悪い部屋って酷い言い草だね。全部創太君の顔なのに」
「お前の顔だったとしても何千枚あったら気持ち悪いわ! 良いか、追ってくるなよ? 警察呼ぶからな!」
彼女にとって警察は何の抑止力にもならない。分かっていたが、脅そうと思うとそれしか思いつかなかった。良くも悪くも警察は頼りになる存在なのだ。只、メアリに対しては腑抜けと化すだけで。
脇目もふらず逃走を図る俺をメアリは追おうとしなかった。鍵は掛かっておらず廊下には出られたが…………あれ?
首吊り部屋は何処だ?
首吊り部屋さえ見つけられれば、そこから連鎖的に帰宅出来る。そう思ったまでは良いが、肝心の部屋がどれか分からない。そもそもこんな石灰色の廊下だっただろうか。端に螺旋階段はあったか? 首やら四肢やらを切り取られたお雛様がそこら中に転がっていたか?
「おい、メアリ!」
身を翻し彼女の名を叫ぶ。追う様子を見せなかったメアリは、見覚えのある無表情で『笑った』。
「どうかしたの?」
「元に戻せ! これじゃあ帰れないだろ!」
「元に戻すも何も、さっき通った廊下でしょ。帰りたかったら帰れば良いのに」
「全然違えだろ! こんなバラバラの人形とか無いし、螺旋階段なんて構造上存在するのか? ここ一階だろ?」
「ん~…………じゃあ窓から出ればいいんじゃない?」
……あ。
「それだ!」
メアリには珍しい妙案に、俺は思わず手槌を叩いてしまった。確かに窓から出れば部屋の構造は関係ない。中庭だろうが外庭だろうが、外にさえ出てしまえばこちらのものだ。丁度螺旋階段とは正反対の位置に大きな開き窓がある。急いで駆け寄って窓を開くと、何故かメアリが立っていた。
窓の向こうは、また『俺の部屋』だった。
「ぎゃああああああああ!」
完全に錯乱状態になった今、窓を締め直す余裕はなかった。前方不注意も甚だしく背中の方向へ一目散に走りだすが、三歩目を踏み出した所で、自分が『俺の部屋』に居ると気が付いた。
「…………は!?」
再び背後を振り返る。メアリが何食わぬ顔で能面の様な顔を向けていた。
「どうかしたの。帰りたいなら帰ってもいいのに」
「お、おまおまおま……お前! 帰す気ないじゃないか! それならそれでさっさと言えよ! 遠回しに妨害しかけやがって―――頭がおかしくなりそうだよこっちは!」
部屋を出たと思えば廊下が変わっている、在る筈のない物が生まれている、窓の外は部屋に繋がっていて、後ろには同一人物が居る、そもそも部屋から出ていない。
何が何だかさっぱり分からない。何もかもまやかしに過ぎないのかと本気で信じるレベルだ。俺には間違いなくそれをした実感があるのに現実が供わない。とすると、現実とは何なのか。じゃあ本当の俺は何をしているのか。
哲学者でもない一介の高校生がこんな事を考えたら気が狂ってしまう。後一時間同じ事を繰り返されたら、とてもじゃないが耐えられないだろう。
「ん~私も創太君が何言ってるのか分からないんだけど。あ、そっかあ。きっと家が貴方を好きになっちゃったんだ。だから帰したくないんだよ」
「そんな事あってたまるか! どう考えてもお前の仕業以外の何物でもないだろうがッ! 自分の家に責任転嫁したって一ミリもお前の罪は軽くならねえからなッ!?」
「貴方がどう思うかは勝手だけど、私は罪なんて背負ってないよ。だって罪があったら裁かれなきゃいけないけど、私は裁かれてないもんね。罪とか罰とか心底下らないとは思うけどさ」
このあまりにも身勝手が過ぎる自論もいい加減聞き飽きた。こいつには何を言っても伝わらない。それは彼女と出会った時から当然の事実だ。
だから俺は―――その場で正座をして、深々と頭を下げた。
「…………頼む! 今日は家に帰らせてくれ。本当に頼む。またいつか来るって事でさ、帰らせてくれ! 本当に頼む!」
「ちょっとやめてよ土下座なんて。私は創太君にお願い事があるだけなんだよ? それを聞いてくれるだけで良いのに土下座なんて―――」
「頼む! 今日はもうお前に付き合ってられないんだ! 頼む! 頼むよ! 今までお前を嫌ってきて虫が良い話だとは思うけど。友達のよしみでさ、今日だけは帰らせてくれ!」
妄想と現実がごちゃごちゃになった様な世界に入り浸りたくない。多少のプライドをかなぐり捨ててでも、俺は一度外の世界に触れたかった。彼女を前に土下座など、かつての俺が見れば恥を感じ入るあまり切腹していたかもしれないが、それでもする。
お構いなしに不思議な力を行使する彼女に、俺の様な一般人は何も出来ない。神を畏れ崇め奉るように。
土下座は一分以上続いた。暫し続いた沈黙を破ったのは、メアリの溜息だった。
「分かった。分かったよ創太君。今日は帰ってもいいよ。でも明日も来てね。約束だよ」
「―――ああ…………最後に一つ聞かせてくれ。さっきまでお前知らないって言ってたのに、今はまるで自分に権限があるみたいに言ったよな? それはどうしてだ?」
「だって知らんぷりした方が創太君も困るでしょ。本当は四六時中一緒に居たいけど、そこまでされたら私も考えるよ。ほら、今度こそ帰ったらいいじゃん。私の気が変わるかもしれないよ?」
くどいかもだけど、明日も絶対来てねとメアリが言う。口では頷いたが、俺は絶対に行かない。
命様の所に避難しよう。
あそこに居れば絶対に安全の筈だ。メアリもメアリ信者も訪れた事がない神域。明日は一日中隠れていよう。命様も事情を説明すれば分かってくれる筈だ。
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