戯群



「………………ッ」


 その瞳を見た瞬間、俺は己の精神が肉体から離れていくのを感じた。怪奇現象にはどこぞの阿呆のせいで何度か遭遇してきたが、こんな事は初めてだ。体の操作が全く効かない。視える奴が逆に視られたせいで大変な事になってしまった。


「…………坊。我の眼に狂いはなかった。貴様は立派に成長し、ここに至るまでに面白い物を見せてくれた。礼を言おう」


 月喰が俺を抱きしめる。肉体は動かない。茜さんからは助け出そうとする意志が伝わってくるものの、月喰の姿を一目見たくて仕方ない(来るのは嫌だったが、ここまで来たなら怖いもの見たさが勝ったのだろうか)清華を制止するので手一杯な様子。


 そして俺も…………完全に精神が離れない様に抵抗するので精一杯だ。そもそもどうやって抵抗しているかも分からないので僅かな気も抜けない。この場で自由に動ける存在が居るとすれば、それは清華と月喰だけだ。


「……待ちたまえ、月喰。少年はここの者じゃないぞ。魅了する意味は無い」


「いんや、意味はある。我は坊が童であった頃から唾を付けていた。それを今、ようやく回収したまでの事。ここに坊を連れてきた功績は認めるが、我の行いに若輩が口を挟むな」



 ―――唾を付けた?



 俺も清華も茜さんも理解出来ていない。しかし月喰に認識を共有するつもりは更々なかった。愛おしそうに俺の肉体を眺めるだけで、茜さんや清華には見向きもしない。


「……ああ、それは分かっている。少年から聞いたよ。三歳の頃にここへ迷い込んだ彼を、貴方は帰してあげたそうじゃないか」


「その通りだ。だが二度目はない。坊には我の片目を与えた。坊の全ては我の物だ」


 命様もびっくりの極論をかまされた以上は俺も黙っていられない。世界の中心とはいかないが、身体が動くなら今すぐにでも『俺は命様の物です』と言い切ってやりたい。


 だのに肝心の肉体が動かないせいで口だけの奴みたいになっているではないか。人類最大の自由を奪われた俺の代わりを務めてくれたのは、意外にも清華だった。


「ちょ―――待ってよ! 兄貴の意思はどうなるのッ? 兄貴は物じゃない! 勝手に決めつけないでよ!」


 茜さんは毎年この『闇祭り』に参加しているそうだから、力関係は嫌という程よく知っている筈だ。度々神様に不敬を働く俺も、今は文字通り抜け殻だ。馴れ馴れしく文句を言える存在が清華しかいないと言えばそうなのだが、彼女にここまでの度胸があるとは思っていなかったのでちょっと意外だった。


 月喰は動じる様子を見せない。


「―――だそうだが、坊。貴様はどうしたい?」


「……月喰様の下で生涯を共にしとうございます」



 ―――は!?



 俺は誓って何も言っていない。紛れもなく俺から出た発言だが、そこには俺の本心が無い。これではまるで月喰が求めた言葉を機械的に返しただけだ。瑕疵ある意思表示は法律により無効と決まっているが、こんな異界で法律を適用せんとする度胸知らずが果たして何処に居るだろう。


「これで答えは得た。得心したのなら速やかに去ね。我は坊に用がある」


「兄貴ッ? ど、どうしちゃったの!」


「落ち着くんだ。あれは少年の本心じゃない。月喰は目を合わせた存在を魅了し思考を改竄する。つまりは言わされているだけだ。形は巧妙だがね」


「え……と? と、とにかく兄貴の本心じゃないんだよね! じゃあ今の無しでしょ! さっさと兄貴から離れてよバケモノ!」


 そう、その通り。俺の本心ではない。こんなよく分からない存在と一生を共にしたいなんて冗談じゃない。仮にも俺は人間で、ここは不可視達のお祭り会場。相容れる筈がないし、もし頷く状況があるとするなら、それは命様からのお誘いだけだ。


 しかしどうにも記憶と事実が食い違う。俺が迷い込んだ時助けてくれたのは超絶美人のお姉さんであり、こんな液状の妖怪ではなかったのだが。それともこの記憶は改竄を受けた結果であり、実際は違ったという事か。


 もしそうなら、許せない。


「…………………は」


「ん?」


「……は、な…………せ。ツキ……バミ!」


 これは悪質な詐欺だ。そもそも俺がメアリと一緒に月祭りへ参加するのは、本人の強引さを除けばあのお姉さんにお礼を言いたかったからだ。あわよくば二人きりでお祭りを楽しんで、連絡先を交換出来たら良いなあと思っていただけなのに。サンタクロースが居ないと知った時の絶望感……は然程無かったが、俺の夢は壊された。


 こんなドロドロした奴が俺を助けたとか!


 あんな風に接近された故に俺はまだ月喰の幻想色の両眼しか知らない。だが記憶の中のお姉さんは液体にならなかった。それだけでも詐欺は成立する。幼少時代から続いた俺の淡い下心を返せ!


「……我の『魔』に抗うか坊。受け入れれば幸せであろうに、なにゆえに抗う」


「うる…………さい。俺の記憶を……改竄しやがって! 俺はお前の物に何か、ならないしッ。ここから脱出するに決まってんだろ!」


 月喰の胸を突き飛ばし勢いよく距離を取ろうとするが、中途半端にしか開かなかった。だが避難するには十分すぎる距離だ。脇目もふらず茜さんの背後まで移動して、振り返る。


「少年。大丈夫かい?」


「思考は破壊されてません。大丈夫です」


「そうか、それは本当に運が良い。彼女が敢えて壊さなかったのかもしれないが、ともかく無事で良かったよ」



「え、『彼女』?」



 改めて月喰を見遣る。今度は目を合わせない様に、首から下のみを意識する。フラッシュバックしたのは幼児期健忘の末に忘れ去られた昔の記憶。俺が嫌われ者になる前の僅かな平和。


 地面に引きずる程長い紅白の着物は敢えて着崩され、その豊満な谷間―――否、臍まで露わにしている。人間離れした豊かなスタイルは命様で鑑賞済みだが……順番が逆だ。俺は三歳の時にあれを見ている処か、迷い込んだ当時の俺は家族とはぐれたせいで泣いていて、泣き止むまであの着物の中で抱きしめられていた記憶まで蘇ってきた。


 微風に揺れる銀髪は美しく、きっと見る者全てを引き付ける。神に愛された美少女が実際そうであった様に。 


「…………ほう! ほうほうほう! 坊、貴様は我の期待以上の男だ! 我の片目を与えた甲斐があったッ。やはり誰がどう言おうと貴様は我の物だ、檜木創太!」


 月喰は心底嬉しそうに笑った。


















 俺が期待以上だった事に余程機嫌を良くしてくれたのか、初手の強引さから打って変わって話をしてくれる気になった。話と言っても用件自体は俺と清華に脱出方法を教える、もしくはさせてくれるだけなのだが、最初のやり取りから幾つか聞きたい事が出来てしまった。


 俺に対する行動を見てしまったせいで、清華にはすっかり警戒心が生まれて今にも帰りたそうにしているが―――申し訳ない。ここで帰ると、俺は何か大事な事を見落としてしまう気がする。


「ええ……まずは…………ツキバミさん? ツキハミさん……えっと」


「どちらでも構わんぞ。坊の好きに呼べ」


「正しい方があるならそっちで呼びたいんですけど」


「我は闇であり、獣であり、妖であり、影そのものだ。呼び名に多少の違いはあれど差異はない。どちらも我だ」


 本人がそう言うならそうなのだろうし、これで一先ずメアリの『もっとツキハミを視て』という発言の『正体』は判明した。恐らくは意味も……まだ何となくだが。


「ツキバミさん。その節は感謝してます。お蔭で俺はアイツの信者にならずに済んでます! でもどうして俺に鬼妖眼を貸してくれたんですか?」


「……貴様らは鳥居を潜ったのだったな。ならば頭陀袋を被ったヒト共も覚えている筈だ」


「ああ。あれは私も気になっていたんだ。ここにヒトが来るとすれば貴方が招く以外にあり得ないが、あのヒト達はどうしてあんな事に? 視線一つであらゆる存在を傀儡同然に出来る貴方だ。不敬を働いたとは考えにくい」


「我の信者になった。それだけだ」


「……私も大概説明が下手な自覚はあるが、貴方のそれは説明が足りなさ過ぎる。信者になったと言うのは結果に過ぎない。私が尋ねているのは過程だ。何をどうしたらあんな事になる。私はそれで納得しても、少年や少年の妹は納得しないだろう。まがりなりにも同じ人間が酷い有様なのだから」


「そうか。これは不要と思っていたが、理解出来ぬのなら説明しよう。坊、神が権能を振るうには何が必要だ?」


「あ、俺に振るんですかッ? 信仰ですよね。命様もそれを欲してるので分かります」


「正解だ。我はトコヤミの為に生み出された妖怪、この町に起こる大災を押し付けられた身だ。神はヒト共に福を与え、我等妖怪はヒト共に害を為す。坊の時代では然るべき対比なのやもしれぬが、さりとて信仰が要らぬ訳ではない。そこの若輩が言っていただろう。神の負の側面こそが妖怪であると。かつては全国に我と同じ妖怪が居たが、奴らは忽ち信仰を失い、骸となった。坊ならよく分かる筈だ」


 目を与えられて以降、俺は不可視の存在が当たり前に見える様になった。それでも、妖怪だけは只の一度も拝む事は出来なかった。今、この瞬間を除いて。


 命様も出会った当初に漏らしていたが、現代は神を必要としていない。そして神が不要な以上、その対極に位置している妖怪も不要だ。複雑な理屈など無い。ヒーローがヒーローたり得るのは悪役が居るからで、悪役が事件を起こさないのならヒーローに価値はない。


 それが現実の不文律だ。


「我も手を打たねば遠からぬ内に骸となっただろう。それだけは認められなかった。故に我は形骸化したツキバミ祭りの参加者から一人をここに誘い、信者とした。我の『魔』で魅了し、思考を改竄し、我の事以外考えられぬ様にする。後はその者をここに留めておけば死を迎える心配も無い。我なりの対策だ」


 月喰は淡々と喋っているが、その方法は考えすら及ばなかったので、ちょっと感心してしまった。同じ手段は使えないにしても、命様に対しても似た様な手段なら使える。適当な男女を誘拐して、あの神社に縛り付けて、毎日毎日命様の事を説いて聞かせるのだ。


 そうすれば直に彼等は脱出を諦め信者になるだろう―――なんて。俺にはそんな真似出来そうもないが。


「……あれ? じゃあ何で俺だけは逃がしたんですか?」


 対策の上手さに感心して忘れかけていたが、元はそういう質問だった。茜さんが話題をズラしたせいで危うく忘れる所だった。


「我は死なぬ。だが不死とは人ならざる存在への懲罰だ。坊が迷い込んでいた頃、我は仲間を欲していた。信者作りは随分前から二の次だ。真の目的は選別にある」


「選別ですか? 何の?」





「魔に心を破壊されぬ強い自我を持つ者―――それを我の婿にしようと思うてな」 

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