好きの反対は無関心
体育祭に限った話ではないが、参加者の側である時はあれだけ苦痛だったのに、観戦するとなれば一転して時間が早く流れるのはどのような理屈であろうか。普通に考えれば逆だろうに、俺には余程学校行事に嫌な思い出がある様に見える……まあ自分の事なのだが。
時計の針がてっぺんを指した頃、競技の開催は一時的に休止され、お昼休みとなった。清華は家族の来訪を知っているらしく、真っ先に両親の元へ駆け寄った。俺の事など全く気にも留めていないので、恐らく気付いていないのだろう。気づいていたらボロ糞に貶してきそうな気もするし。
「はあ…………はあ…………せ、せんせー…………」
「お疲れ様。水分補給はちゃんとしているかい?」
「し、してますけど~。い、息がととのわ…………!」
上体を折って息を整えようとしていた幸音さんが顔をあげると、そこには当然俺の姿がある。一応面識はあるのだから少しは慣れてくれても良いのだが、彼女には酷な頼みというものだろう。顔を真っ赤にして、つかささんの背後に隠れた。
「ななななななな何で檜木さんがい、い、居るんですーーーー!?」
「ふむ。僕の口から言ってみるのもそれはそれで面白いだろうが、どうかな檜木君。本人の言葉なら本人が再現するのが一番良いと思うのだけど」
「は?」
「君がここに来た目的だよ。幸音君に言ってごらんなさい」
「あ……はい。えっと、幸音さんを応援しに来ました」
「へ、へええええええッ! ど、ど、どうしてですか?」
「そんな大層な理屈は無いんですけど。強いて言えば体育祭の広告の文字が幸音さんっぽくて、それを確かめる為に来たというか……」
ただ来たというだけでここまで恥ずかしがるのだからこれ以上はどうにもならない気がしたが、一転、幸音さんの顔が青ざめ、彼女はその場で土下座をした。
「あ、あああ。ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! どうか、どうかあの事は誰にも言わないでください!」
これに怯んだのは俺だった。揶揄うつもりも無かったし、強請るつもりも無かった。そのつもりが僅かにでもあれば予測出来た事だが、まさか働いているという事実がここまで彼女にとって知られたくない事実―――禁忌であったとは夢にも思わなかったのだ。
認識が甘かったという他ない。中学生が誰の許可も無しに働いているという事だけであればいざ知らず、肝心の勤務先が違法行為に手を染めた医者の隣だ。俺には彼が悪い人物ではないと分かっているが、嫌われ者の認識が正しい道理などあってはならない。彼の行う安楽死がどれだけの人間を救っているかはさておき、法律的には只の犯罪者だ。まともな人間なら闇のバイトなどさせたくないだろう。
中学生に土下座される光景など目立つという他ないので、俺は力ずくでも彼女を立ち上がらせて、言い聞かせるように言った。
「いやいや言いませんから! 絶対に言いませんから土下座はやめて下さい! これだけは本気で、本気でやめてくれないとそっちの方が困るんですッ」
「あわわわわ…………す、すみません! 謝りますから言わないでください! お願いします!」
「だから言わないですって! ―――つかさ先生! ちょっとこれどうにかしてくださいよ!」
「ええ? 面白いから別にいいじゃないか」
「良くないんですよ! 良くないから言ってるんです! 何傍観者気取ってるんですか、助けて下さいよ!」
もしかしなくても端からこうなる事を知っていたのだろう。つかささんはケタケタと不気味に笑っていたが、俺が辛抱強く助けを求めてると、ようやく折れてくれた。
「ああ、幸音君。彼は大丈夫だ、君の親とは何の関係も無いし、何の繋がりも無い。そもそも『こちら側』の人間だ」
と言っても両手を白衣に突っ込んだまま一言掛けただけだったが、それが効果覿面だった。今にも泣き出しそうなくらい擦れた声を出していた幸音さんが、まるで救いの神を見つけたみたいに俺を見上げたのだ。
「…………ほ、本当です、か?」
「ああ。それに彼はもう僕の患者だ。万が一は無い。安心したまえ」
いつの間にか患者にされていた事には腹を立てるべきだろうが、少なくともここでそれを咎めるのは野暮な上に悪手だ。幸音さんは彼の言葉に安心しきったらしく、何事も無かった様に表情が戻った。息もいつの間にか整っていた。
「…………何が何だか訳が分からないんですけど」
「理由が欲しければ後で説明しよう。ここで説明するのは……憚られる。色々とね。それはそうと幸音君、確かお弁当を作ったのではなかったか?」
「あ、はい! 先生の分もちゃんと作ってますよ!」
「有難う。だけどそれは檜木君に譲ってやってくれないか?」
「「え?」」
幸音さんと全く同じタイミングで、俺は首を傾げた。
「君の応援をする為に来てくれた人を無碍に扱うものじゃないよ。それに見た所彼は朝食を食べていないらしい。たかだか一食抜いたくらいで死ぬ事などあり得ないが、それでも影響は少なからず出る。僕はその辺りで適当に買ってくるから、いいね? ちゃんと渡すんだよ?」
「…………はい」
幸音さんがシュンと落ち込んだ事には気付く様子もなく、つかささんは何処かへと歩き去ってしまった。他の学生達はレジャーシートを広げ家族と団欒をしている。外だけでは明らかに数が足りないので、校舎で食べている生徒も少なからず居るかもしれない。
「……ひ、檜木さん。校舎に来てください。案内…………しますから」
「あの、俺は別に譲ってもらわなくてもいいんですよ? お腹はそりゃ空いてますけど、飢えてませんし」
「……いえ。お気遣いなく。せ、先生に嫌われたく…………無いので」
その発言が、まるで小骨の様に引っ掛かった。
幸音さんの気持ちなど分かる筈も無いのだが、俺の来訪など想定していなかっただろうし、お弁当は当然二人分しかない。それを譲るという事が彼女にとってどんな意味を持つのか。何となく想像がついてしまう。
真心、という言葉がある。真心とは赤の他人に込められるものではなく、ある程度親交がある人物に対して初めて込められるものだ。幸音さんはきっと真心を込めて作ったのではないだろうか。つかささんを喜ばせる為に。
いや、事はそう複雑ではない。或はもっと単純な感情か。
「…………幸音さんは、つかさ先生の事が好きなんですか?」
「――――――!」
耳を赤くして、硬直して。彼女には悪いがここまで露骨だと幾ら鈍い人でも図星を突いてしまった事くらい容易に理解出来る。幸音さんは再び俺の方を振り返ったが、その眼には涙が溜まっており、見抜かれた事が余程恥ずかしかったと見える。
「そ、そ…………そんな訳ないじゃないです…………か」
「じゃあどうしてそんな反応になるんですか? 別に俺は良いと思いますけど。女の子が年上の男性に恋をしたって、別に何もおかしい事はないんですから」
幼い好意とでも言えばいいのだろうか。俺には無かったが、かつての清華にはあった。幼稚園の先生を好きになったらしい。それは世間を知らぬ故の憧憬とも、無垢な好意とも取れる。どちらにしても本人にとっては本気であり、叶わぬ夢であったとしても絶えず心をときめかせるには十分だ。
それに叶わぬ夢とは言ったが、つかささんは身長だけで言えば幸音さんと同年代であり、そこだけで見ればお似合いだ。謎の威圧感と何処かやさぐれた感じがあるからそうは見えないだけで、叶わないとは思えない。
俺の正論に対して、幸音さんはあまりにも悲しい言葉を返した。
「…………せ、先生は、『愛』って言葉が嫌いなんです。出来る事なら誰にも愛されたくないって…………だから……!」
「……俺が悪かったです。校舎に行きましょうか幸音さん。本当にごめんなさい。俺も軽率でした」
人の恋路に立ち入る余裕が俺にあってたまるものか。まして俺は根本的に人間不信だ。二人の事はそれなりに信用しているが、それでも心の何処かでは信用しきれない。メアリがいるだけで、概念的な理は全て破壊される事を知っているから。
ならば踏み込むべきではない。俺に出来る事など何も無いのだ。人の悪意に関してはこれ以上なく敏感な俺だが、好意に関してはその限りではない。野次馬根性を二人に発揮する気にはなれない。
幸音さんの目論見では、つかささんと二人きりで食事するつもりだったのだろう。既にレジャーシートが敷かれている事を除けば、教室は空っぽだった。
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