辛く苦しい世界
「はあ…………はあ……」
俺はどうして寝起きから走らなければいけないのだろう刑務所でももう少しまともな行動スケジュールを立てるというのに、俺の怠惰と来たら全くどうして体に負担を掛けるのか。
「茜さんは…………もう来てるのかな」
「私が何だって?」
「―――うわッ!」
死角に立っていたからであろう、『視える』力を以てしても全く気付かなかった。俺とは違って遅刻もしていないだろうから、当然息が切れているなどと都合の良い話は無い。そもそも怪異に切れる息はないし。
「あ、茜さん……脅かさないでくださいよッ」
「おやおや怪異にそんな事を言う人間は君くらいなものだぞ、少年。私だってつまらなければやめるが、少年の驚いた顔を見るのがどうしても面白く感じてしまってな。これが病みつきになってしまったみたいなんだ」
「人の不幸は蜜の味って訳ですか……」
「君はとても罪深い人間だなあ、少年。神をも手籠めにしてしまうその魅力こそ、君がメアリに勝てる唯一の要素ではないのかな?」
「冗談はやめてください。手籠めだなんてそんな…………むしろ、そうなっているのは俺でしょうに」
「まあ、それも間違いではないね。さあ保護者席の方へ行こうか」
「え?」
「え?」
茜さんに悪意は無かった様で、珍しく眉を顰めた。
「な、何で保護者席?」
「何でって……観客席も兼ねてるじゃないか」
「そりゃそうですけど!」
保護者席なんて行こうものならもれなく家族と遭遇するに決まっている。その時の気まずさと来たら―――いや、問題はそれだけじゃない。家族のせいで俺がメアリ嫌いの学生である事を気付かれた日には、即興で新種目『檜木創太をボコボコにしよう』が生まれてしまう。
流石に被害妄想が過ぎるって?
ああ、そうさ。被害妄想だろうさ。善良な人間がよってたかって一人の人間をイジメるなんてあってはならない。俺だってそう思う。
…………そうは思わないだろうか。
「……家族は俺が来るなんて思わないだろうし、来たら発狂すると思うんですよ。だからそっちには出来れば行きたくないかなあって。それに生徒の所にさえ行かなければ、何処に居たって観客なんて一緒でしょう?」
「難儀な話だよ。本当。第一種目は百メートル走か。体格からすると今は一年生が走ってるみたいだね。君の妹は?」
「二年生ですけど。清華の応援に来た訳じゃありませんからね。俺は―――」
幸音さんの姿を見つけてから答えるつもりだったが、意外に見つからない。面識が浅いせいだろうか。それとも白衣姿ではないからか。体操服と幸音さんが噛み合わない。体育祭に白衣を着る競技があれば直ぐにでも見つけられそうだが、そんな面白おかしい競技があったらこの体育祭にはもっと人が来るだろう。俺の高校もそうだが、この地域の学校は中々どうして頭が固く、独創性というものを認めたがらない。文化祭ならばいざ知らず、体育祭はもう何十年と昔に決めたであろう行程をやるだけだ。
高校に行ってもそれは変わらない。俺の所はメアリが居るから以下略。
アイツに常識は通用しないのだ。
「あ、ちょっと待ってください」
「ん? 見つけたの?」
「いや、幸音さんの知り合いを見つけたんです。つか―――ッ」
喉まで出かかったというより少し手遅れだったが、こんな所で大声をあげてしまえば家族に気付かれて、それこそ俺の回避したいシナリオ一直線だ。幸いにも第一種目中という事もあり、俺の声は歓声と走者の足音にかき消された。
息と共に声を呑み込み、足音を消す。またとないチャンスを逃す道理はない。せっかくなので、俺も茜さんと同じ趣を楽しんでみるとしよう。彼女に口止めをしてから、俺は校庭の外周を大回りして、その人物へと近づいていく。
「…………僕を驚かそうとしているなら、死体が起き上がってくるくらいはしないと無駄だよ」
完璧に死角を取ったと思ったのだが、正に驚かそうとした時、つかささんの首がぐるりと反転。深い隈が刻まれた鋭い瞳が俺を射抜いた。動けない。瞬間にして全身の生気を吸い取られたかの様だ。よく見たら、つかささんの目は死人みたいに濁っており全く光を感じない。生半な死人よりも目が死んでいる。
「つ、つかさ先生! おはようございますッ」
「ああ、おはよう。今日も絶好の解剖日和だねえ」
「そんな日和は無いですよ。所でつかささんは、どうしてここに? 極力診察以外はしたくないって言ってたじゃないですか」
「おいおい、僕が死体を弄るのが好きだからって、もしや人でなしだと思っているのではないかな?」
「どう考えてもそうでしょ」
「心外だなあ。人の心まで捨てた覚えはないとも。時々誰かを解剖したくてたまらない欲には駆られるが、それもしっかりと抑えている。まあ、君の言う事も一理あるさ。診察以外は確かにどうでもいいし、メアリとやらの影響は受けたくないものでね。だからこうして耳栓をしてきた」
「え? 耳栓?」
「ほら」
つかささんが頭部の側面をこちらに向ける。耳の穴にしっかりと蓋をする様に、耳栓が差し込まれていたが、それならそれで説明のつかない事態が起こっている。現在進行形で。
「じゃあどうやって俺と話してるんですかッ?」
普通、音が聞こえなければ会話は出来ない。耳の聞こえない人がまともに言葉を発せないのは、自分の声も聞こえないから、果たしてその発声が正しいのかどうか分からないからだ。その前提に照らし合わせて考えると、つかささんの耳栓は全く役に立っていない。間違いなく音漏れしている。
「読唇術と、後は君の反応を見ているだけだ。僕が普段と遜色なく会話出来ているからこそ、君は何かしら反応している。もしも発声が上手くいっていないなら、君の顔に出る反応は限られてくる筈だ」
「…………つかさ先生って医者なんかやってないで、そういうパフォーマンスをやった方が稼げるんじゃないんですか?」
「あのねえ、医者でもない奴が安楽死させてもそれは只の殺人だよ? 僕は基本的に殺人をするつもりはないと言っただろう。警察の厄介になるのは御免だ」
つかささんが徐に骨の棒で東の方向を指すと、そこには幸音さんと思わしき少女が友達と楽しそうに話し込んでいた。茜さんの位置からでも見えた筈なのだが、やはり白衣が無いと分からない。しかし、本当に中学生だったとは…………
「幸音君には世話になっているからね。保護者として観戦に来るくらいはしてあげないと」
「……中学生を働かせちゃいけないんですよ? 自分の家とかならともかく」
「色々と訳ありなのさ。それとも君は、下らない正義を振りかざして警察にでも通報するつもりかな」
「警察は嫌いですから、そんな事しませんよ。…………医院の場所もそうですけど、そっちも色々と込み入った事情がありそうですね」
よく考えれば、手書きの広告など違和感しかない。このご時世に広告を打つとすれば、どんなにお金が無くてもPCで作成するだろう。その方が見栄えが良いだろうし、何より一般的だ。それが手書きである時点で、俺は何かしらの事情を察するべきだった。
一歩間違えれば強請りにもなり得る言葉にも、つかささんは眉一つ動かさなかった。
「込み入った事情が無ければ安楽死など推進しないさ。君はどうやら知らないみたいだが、この国では積極的安楽死は認められていない。刑法的に言えば同意殺人罪にでもなるのかな。つまり僕は医者としても違法の存在なんだよ。だから広告も必要最小限だ。一々隠れ家を探すのも面倒だしね」
「…………先生は今までに何人、死なせてあげたんですか?」
「五人かな。それらを自殺志願者と一括りにするのは簡単だが、やむにやまれぬ事情があったという事は君にも知っておいて欲しいな。最初から死のうとする奴なんて居ない。きっかけがあって初めて自殺の意思は生まれる…………遺言という形で僕は彼等の人生を全て聞いた。その上でそう結論付けた。そうだな……安楽死を選んだ人間は、君みたいだったよ」
「俺みたい、ですか?」
「ああ、その通りだ。周りに誰も居ない、何も感じない。近くに居る筈なのに、声が遠くから聞こえる。傍で聞こえるのは自分への罵詈雑言だけで、息を吸って吐くだけでさえ辛い毎日。陳腐な台詞でしか勇気づけられない母、慰める処かお前の心が弱いのだと叱る父、人の悩みをくだらないと斬り捨てズレた励まし方をする友達、聞こうともしない教師。私だって辛いと逆切れする配偶者など。今の君から反骨心と『視える力』を抜き去れば同じ気持ちになるのだろうね…………なあ檜木君。そろそろこの話はやめないか。今は体育祭だ。幸音君を見てやろう―――と言いたかったが、君はどうしてここに?」
「清華―――血縁上の妹がこの学校に居るので」
「ああ、家族の応援か。引っかかる言い方だが、ならばそちらに行きたまえ」
「いえ、体育祭の広告も幸音さんが書いてる様に思えたので、せっかくだから見に行こうかなって」
「ややこしいな。今の話は全般的に要らなかったよね」
俺が家族の所に行く訳ないだろう。どうしてメアリ信者とわざわざ仲良くしなければならないのだ。アイツ等は俺と仲良くしようとした事なんて一度も無い。狂信者は自らの信ずる神を否定せし邪教を認めたくないのだ。
「……まあ、同じ人物を見に来たというのなら是非もない。一緒に応援しよう。幸音君の運動神経は普通だから、大活躍するとは微塵も思ってないが」
「最後の一言も全般的に不要でしたよッ?」
「余計な事を言うのが最近の趣味でね」
「趣味悪いですよ」
「今更だ」
それから俺とつかささんは黙って幸音さんの活躍を見る事になった。途中で茜さんも合流したが、つかささんの存在が気になったからだろう、一言も発する事なく俺の腕を取り、黙って肩を預けた。
因みに運動神経が普通との評価を受けた幸音さんだが、出場種目全て最下位というむしろ常人には真似出来ない偉業を成し遂げた。
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