狂気なる正気の狭間にて

「………………ん」


「きゃあぁあッ! せ、先生! 起きました、おき、起きました!」

 気が付けば、俺は天を仰いでいた。いや、違う。ベッドだ。ベッドに横たわっていたのだ。意識の覚醒に伴い、幸音さんが逃走。代わりに入ってきたのは、つかささんだった。

「起きたか」

「……………俺、何でここに居るんです?」

「余程僕の仮説を受け入れたくなかったらしいね。発狂して気を失ったよ。気分はどうだい?」

「……何も、覚えてないです。本当に発狂したんですか?」

「発狂したとも。残念ながら録音はしていないが。いやはや、しかし興味深いものを見させてもらったよ。君はメアリという名前を聞く度に頭を抑えていた。自分で発言してさえそうなのだから、余程気に食わないんだね…………その時抱いていた感情、思い出せるかい?」

「いや、何も…………………そもそも、発狂してた記憶がないので」

 思い出せるのはつかささんに色々と言われた所までだ。それ以降は全く思い出せない。そんな瞬間があったのかさえ疑わしい。しかし医者が嘘を言うはずないし、俺の記憶が明らかに繋がらないのもおかしいので、あったのだろう。

「……記憶障害か。ふむ…………分かった。有難う。落ち着いたら帰るといい。気が向いたらまた来なよ」

「え? でもお金ありませんよ?」

「お金は払わなくても結構だ。君に対して精神分析は行っていないからね。ただ……気が向いたらまた来てくれると、僕としては嬉しいかな。勿論どちらでも良い。安楽死でも、今回みたいに雑談でも。ただ、安楽死を望む場合は契約書にサインをしてくれたまえよ」

 安楽死の話をする時だけ、つかささんの目は輝く。声に抑揚がつき、言葉が感情に彩られる。誰かが死ぬ事を楽しんでいるのだろうか。それとも安楽死とはいえ、誰かを殺す感覚に興奮を覚える様になったか。

「……その契約書、何て書いてあるんですか?」

「ああ、大した契約じゃないよ。遺体を僕の好きに使ってもいいという契約だ。僕はね、人間の死体を弄るのが大好きなんだ。特に不思議な力を持つ人間の死体はね。その力の手掛かりを見つけ出すのは非常に困難なのだけれど、手間がかかるからこそ愛おしい! …………君が安楽死を選ぶなら、歓迎するよ。檜木君? 神を視る力の正体、いつか僕が解き明かして見せようじゃないか」

「いや、いいです。当分はそのつもりないんで」

「………………はあ。そう。残念だ」

 ベッドから体を起こし、念の為に全身を確認する。この医者は何かしかねない。そういう不信感をどうしても拭う事が出来なかった。

 ……大丈夫そうだ。

 ベッドから完全に降りると、こちらを遠目に観察していた幸音さんがサッと隠れた。人見知りも度が過ぎれば生活に支障を来す。俺一人にこれだけ怯えるなんて、本当に買い物とか出来るのだろうか。俺は少し心配になってしまった。

「ああ。少し心配だったが、立って歩けるなら問題ないだろう。くれぐれも気を付けて。幸音君に見送らせるよ」

「…………あの」

「何かな?」

「つかさ先生は俺の味方なんですか? それともメアリの……味方?」

「極端な二極化だ。どうも君は自身をメアリの対極に置きたいらしい。無意識下に気付いている共通点を拒絶しているかの様だ……ああ失礼。分析はやめよう。君は別に治療をしたい訳じゃないんだから。強いて言えば僕は僕の味方だ。君に悪感情は抱いていないし、そのメアリとやらにも特別好意は抱いていない。興味はあるがね」

「興味ですか?」

 つかささんはカッターナイフを手に取って刃を出すと、自らの正中線に沿って、虚空で刃を降ろした。

「先程も言っただろう。僕は人間の死体を弄るのが大好きだ。その非現実的な異常者の身体の中を、僕は見てみたい。だが君の話を聞く限り、相対した人は無条件で嵌ってしまうらしいな。にわかには信じがたいが、君の精神の追いつめられ方からして、真実なのだろう。故に僕は動かない。いつも通りここで死体をいじ……診察するだけさ」

「今弄るって言いかけましたよねッ?」

「フフフフ、バレたかい? 安心したまえ、殺人はしない主義だ。基本的にはね」

 何処となく気怠そうに去っていく俺の背中を、彼はいつまでも見つめていた。















「あ、有難うございましたッ! またお越しください!」

「いや、それ病院としてどうなんですかッ?」

「あ―――お、お大事にしてください!」

 幸音さんに見送られ(どう見ても年下だが、親しくもないのにタメ口にするのもおかしいだろう)、俺は医院の目の前まで戻ってきていた。一時的に気を失った事で落ち着いたのかもしれないが、想像していたよりは悪い人達ではない。命様との関係を否定してきた時は殺してやろうかと思ったが、あれも純粋に俺を心配しての事なのだと、幸音さんは先程言っていた。


『つかさ先生、両親が宗教にハマったせいで家庭が崩壊した経験があるんです。だから神様と人間は関わるべきではないって感覚を持ってて……わ、悪い人ではないんです。そこは分かってあげてください』


 そんな過去があったとは驚きだが、悪い人ではないのは確かだ。意見の食い違いや理解しがたいものこそあったが、それはそれでこれはこれ。ちゃんと俺の話を聞いてくれたし、普通ならばメアリの異常性など信じられない所だが、彼はそこをきちんと信じてくれた。信者や元凶と比べたらよっぽど良識的で、よっぽど善人だと思う。

 ただ、自分の骨を削りだして装飾品を作るのはどうかと思う。趣味の一つらしいが、俺よりもよっぽど狂った行動をしているじゃないか(誰がどう考えても気が狂っているとしか言いようがない)。

「…………あ、幸音さん。また暫くしたら来るので、つかさ先生に今から言う質問を伝えてもらっていいですか?」

「は、はいぃ! な、何でしょう……か」

「『メアリを打倒するにはどうしたらいいでしょうか』。答えは次に来た時にでも教えていただければ」

「わ、分かり……ました。それではお大事にいいいいいい!」

 人見知りの次元を軽く超えている気がする。しかしまともに会話は出来ているので、対人恐怖症とも言い難い。やはり人見知りなのだろうか。幸音さんは振り返る事なく医院の中に戻ってしまった。「やっぱ、絶対買い物出来ないよな」

 しかし幸運だった。まさかこの町でメアリを知らない人と出会えるなんて。何だかとても不気味だ。命様とう安息地を得て、絢乃という切っ掛けを得て、二人と出会った。幸運があまりにも連続しすぎている。もしやこの後、俺は死んでしまうのだろうか。不幸の連続に耐え切れず、壊れてしまうのだろうか。

「…………メアリと俺の馬が合う、か」

 認めたくない。認める訳にはいかないが、完全否定も出来ないのが辛い。つかささんは別に間違った事は何も言っていないのだ。理屈として考えれば、確かに正論を言っている。気が合わなきゃ仲良くなれないし、馴れ馴れしくも出来ない。こちらの願望通り、俺がメアリの対極に居るのなら、俺とメアリは絶対に仲良くなれない筈なのだ。しかし事実は違う。どれだけ俺が拒んでも、彼女は必ず俺にすり寄ってくる。

 まるで唯一の仲間を見つけたみたいに。

 でも認められない。俺はアイツが嫌いだ。嫌いで嫌いで仕方ない。憎くて憎くて仕方ない。俺から日常を奪ったアイツを赦す事なんて出来ないし、好きになるなんてあり得ない。馬が合うなんて信じられない。

「恋で理性を保つねえ…………そんな事可能なのか?」

 そんな事が出来るなら、俺もメアリへの憎悪だけで理性を保て出来そうだが。つかささんに言わせればダメダメらしい。まあ確かに、メアリの事となると理性が薄くなって本能的衝動に身を任せる事があるのは認める。それは原始的欲求だ。話は至ってシンプル。メアリの存在が俺にとって不快だという事。それに突き動かされる時点で、コントロール出来ているとは言い難い。

「………………なーんか、嫌だなあ」

 自分の内面を弄られたみたいで、物凄く気持ちが悪い。命様の下へ行き、癒されようかとも考えたが、今日は社に泊まらないと言ったばかりである。家に帰るしかない、か。どうやっても学生身分から抜けられないのは、全く不便な話である。


 そういや最近、清華の姿を見ないな。


 家に帰ってないなんて事は俺以上にあり得ない筈だが。

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