目覚め
世界は何も変わっていない。今日も何処かの国は戦争をし、何処かの国は対立し、何処かの国は手を組んでいる。誰が、いつ、どこで、何をしているかは分からないが、何をしていてもこの世界は変わらない。
誰かが誰かを殺そうと、誰かが誰かを洗脳しようと、誰かが誰かを辱めようと、世界は何も変わらない。その程度で変わる程世界は小さくない。この世にどれだけの人間が居ると思っている。正確な数はどうであれ、少なくとも肉眼では測り切れないくらいは居る。何をした所で変わらないからこそ、この世界に生きる人間には自由が許されている。
―――目が覚めた時、私の世界は変わってしまった。
語弊なく言えば、本質は何も変わっていない。変わっていたのは私であり、私だった。世界は平和かもしれない。不変かもしれない。それでもこの終末風景を見ていた人物が居る。私よりも遥か以前に、或は生まれた時からずっと、この風景と共に生きた人物が居る。
気持ち悪い。
目が覚めてから初めて抱いた感情はそれだった。しかし都合よく記憶喪失などしていないもので、以前の私が同じ状況にどんな感情を抱いていたのかも知っている。気持ち悪いという感情は、それを含めての感情だ。
そして不気味。
当たり前に存在する賛美、当たり前に優先される感情。それは好意などと生易しくも応援したくなるような感情ではなく、崇拝という一歩間違えれば日常を脅かす危険な領域にまで昇華されていた。
もう一度言う。気持ち悪い。
無条件に賞賛する人間、不必要に優先される好意、過剰に強制される『正しき」行動。それを今まで受け入れていた事も、正しいと信じていた事も、間違う筈がないと思っていた事も、何から何まで気持ちが悪い。
これは私達の様な一般人が最も嫌う『普通ではない事』ではなかったのか。普通の中に生きる私達が忌み嫌う『特別』ではなかったのか。理解出来ない。今は理解したくもない。この状態が許されるのはどう考えても道理に適っていない。
「…………兄貴」
認めるし、謝る。私は今まで、理解出来ないなりに、一番兄貴の事を理解していると思っていた。しかしそんなものは幻想であり、妄想であり、虚実だ。砂漠の中の砂粒程も理解出来ていなかった。全てが手遅れになってから理解した。
孤独を。
苦痛を。
寂しさを。
要領が悪いと言うつもりはない。嫌いな人物の名前を何処に居ても聞いてしまう様な世界で感情を吐露出来なければ精神的ストレスに―――ともすれば自殺に繋がる。兄貴がこの狂った世界で『異常』を叫び続けていたのは、己の精神を安定させる為でもあったのだろう。これでもまだ理解したとは思っていない。私が理解したのは一端……兄貴はこんな苦しみを、十年以上は確実に味わっているのだから。
「いやあ聞いてくれよママ! 今日は取引だったんだが、丁度メアリちゃんが通りがかって―――」
「あら、奇遇ね。私も一昨日メアリちゃんと出会った時に―――」
もう、兄貴が食卓に姿を見せる事はない。私を妹と認識する事も、家族を家族と認識する事もない。兄貴にとって私達は只の同居人。だから他でもない私達にも同じ認識を勧めた。救いようのない事に、目が覚める前の私も含めて、その認識は願ったり叶ったりのものであった。だから私も引き留めなかった。
―――私、失敗したんだ。
一片の曇りもなく失敗した。正しさの余地など無い。絶対に間違わない『異常』を受け入れた結果、取り返しのつかない失敗をした。幾ら反省しても、幾ら謝罪しても、幾ら弁明しても、どうしようもない失敗というのはある。責任なんて取れないし、取れる筈もないし、存在しない。あるのは失敗の事実だけ。
兄貴の笑顔はもう見られない。
もし見られる日が来るとすれば、それはこの『異常』が消えうせ、私が赦された時。つまりは永遠に見られないのだが―――それでもしなければいけない気がする。『異常』の消去を。その異常を嫌悪する者として。
今は正しさを自覚出来るこの反逆的思想も、彼女と相対すれば直ぐに塗り替わるだろう。根拠は無いが、彼女の顔を見た瞬間の多幸感は今も覚えている。あんな感覚をまた味わわせられたら、兄貴が縁を切ってまで取り戻してくれた僅かな正気など、一瞬で消し去られてしまう。
―――だがその前に、私は自分の心配をするべきかもしれない。
兄貴は周囲に認知される嫌われ者になっており、それは良い言い方をすれば『公認』であるという事。今更何をどうしようが嫌われ者には変わらず、これからも迫害され続けるが、逆に言えばそれ以上は無い。
しかし、私は違う。私は兄貴を嫌う周囲と同化している。兄貴に感化されたと分かれば、周囲は加減も分からず私を『更生』させようとするだろう。つまり私は、これからこの『異常』が消え去るまで、今までを装って生きなければならない。兄貴とは違って、声に出す事すら許されないのだ。
これが私への裁き。今の今まで兄貴を苦しめた妹への、当然の報い。
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