兄妹喧嘩の行方 2

 痛い。


 痒い。


 熱い。


 重い。


 後頭部にズシンとのしかかるこの重さには覚えがある。頭をぶん殴られた時の痛みだ。何度かリンチにあった経験がまさかこんな所で役に立つとは……って役に立ってない。俺は状況分析をしただけだ。


「兄貴。目覚めたんだ」


「…………清華。何のつもりだよ、これは」


 両手足をガムテープでぐるぐる巻きにされている。加えて俺の首には縄が掛かっており、今は力がかかっていないが、この単純な掛かり方からして、その気になれば簡単に首を絞められるだろう。勿論身動きは完全に取れないので、せめてもの抵抗も不可能。縄の間に手を差し込んで粘る事も出来ない。


「兄貴、もう一度だけ言うよ。私と仲直りして」


「…………断ると言ったら?」



「―――兄貴を殺す」



 俺の事など知る由もないメアリが、どうして絶対などと言い切れるのか不思議でならなかったが、成程。確かにこれなら、絶対と言えるかもしれない。俺でなくとも常人は死を恐れている。自分が死にたくない為であれば親友だって売るだろうし、家族だって売る。仕方ない。それが生物としての防衛本能なのだ。


 早い話がLife or death。仲直りをすれば命は助かるが、ここで意地を張れば死んでしまう。究極にして不公平な二択だ。真っ当な人間からすればこれは選択肢たり得ない。事実上の一択しかない選択肢。


 だがそこには、穴がある。


「……お前に殺せるのか?」


 リンチに遭った回数は一度や二度では済まない。俺は様々な目に遭い、様々な痛みを味わってきた。だからこそ確信出来る。


 妹に絞殺は出来ない。


「絞殺っていうのは、力がいるんだよ。めいっぱい力を込めれば殺せるだろうが…………出来るとは思えない。俺の知る清華は、少なくともな」


 メアリみたいな死に時理論支持者ならこうはいかないが、あんなイカれた理屈が多数派であってたまるか。メアリが絡むと狂人になってしまうのを除けば、妹は善良なる人間だ。力も弱い。一瞬で殺すならまだしも、人の喘ぎ声を聞き続けながら尚も力を込められるとは到底思えない。


 俺がどれだけメアリを憎んでいても、石を目の前に、本人の同意を得て殴る事許されても―――ついに殺せなかったように。人を殺すという行為はそれだけ重く、一般人には辛い事なのだ。それを家族に、しかも仲直りしたいと思っている兄貴相手に出来るとは到底思えない。



 それにしても、俺にしては妙に落ち着いている気がする。何故だろうか。



「……兄貴が仲直りしてくれないなら、やる」


「解放してくれ」


「解放したら仲直りしてくれるの?」


「しないに決まってんだろ」


 する訳が無い。これは殺人未遂だ。ごめんで済めば警察は要らないと言われているが、まさにその通りだ。こんな事をされた時点で、もう仲直りなんて何があっても出来ないし、しない。命を脅かされる危険を孕み続けてまで、俺は仲直りしたいとは思わない。


「じゃあやめない」


「そしたら仲直りが出来ないぞ」


 死んでしまえばそれまでだ。死人に口なし、俺の死体を勝手に動かして仲直りをした事にするのも良いだろうが、それをして本当に仲直りできたと……本人は言えるのだろうか。


 どちらにしてもノーを突きつける俺に、終いに清華がキレた。


「どうすればいいのよ!」





「お前、自分が何したか分かってから言えよ!」





 今、分かった。


 俺は落ち着いていたのではない。怒っていたのだ。何もかも履き違えて、メアリの入れ知恵で狂ってしまった清華に、己が正常なのか異常なのかも判別できない言動に、怒りが湧いてきたのだ。沸点を一度通り過ぎれば、後は下がるのみ。しかし怒るのをやめた訳ではない。これは静かなる怒りだ。


 自分の思い通りにならないからといって泣き喚き、『兄貴』ではなく『完璧』に縋りつく妹への、最初で最後の怒りだ。


「なーにが仲直りしたいだふざけやがって! そんなお前は俺に何かしたか? 俺が喜ぶような事をやったか? 俺に歩み寄ろうとしたか? 俺を理解しようとしたか? 俺に話しかけようとしたか? 都合が良いんだよ何もかも! お前は俺の事を兄貴として見ちゃいない。サンドバッグだ。都合の良い時に呼び出せて、襲えて、好きなだけ攻撃を加えられる奴が欲しいんだろ、違うか!」


「ち、違う。私は兄貴と仲直りしたいだけで―――!」


「メアリがそう言ったからか? それともお前自身の意思か? どっちにしても遅いんだよ、絶対に間違えない奴を頼った時点でお前達は大失敗したんだよ! 俺の気持ちも知らない癖に! 俺の悲しみも知らない癖に!」


「―――もう黙って! 本当に殺すよ!」


 首に掛かった縄が力強く張ったが、俺は怯まなかった。


「殺してみれば良いさ! 首を締められた時の痛みなんて屁でもない! お前に分かるか? なあ、お兄ちゃんの気持ちが分かるのかよッ? 急に町全体が敵になってさあ…………家族も……友達も一斉にいなくなって…………ご飯も碌に食べさせてくれなくて、道行く人が白い目で見てくる気持ちがよお!」


「黙れ! 兄貴も私の苦しみなんか何も知らない癖に!」


 力が強まる。意識を失うまいと歯を食いしばり、目を見開いた。しかし視界の端は既に靄がかかり、意識が全体的に暗くなっていく。後、何分も耐えられない。三分も経てば失神してしまうだろう。


「オ゛…………お前…………苦しみなんて…………ない癖に! お前達は間違うのを恐れて……『完璧』に縋ったんだ…………! 俺はもがいて…………足掻いて…………足掻き! 続けたのに…………ガア。お前らは…………」


「兄貴がメアリさんを嫌いなせいで私がどれだけ恥をかいたか分かる!? 白い目で見られたか分かる!? 何にも知らない癖に勝手な事言わないでよ! 兄貴にとってはどんなにしょうもなくても、私にとっては…………辛かった! メアリさんと出会うまでは自慢の兄貴だったのに! くだらない感情で醜くなっちゃって! だから兄貴の事は嫌いなのよ!」


「………………………………………………………俺も…………………お前…………………………大……………………………妹」







「それ以上力を込めたら。殺す」






「え?」


 意識を失う直前に締め付ける力がゼロになり、俺は何とか気絶せずに済んだ。しかし気道を塞がれ続け碌に呼吸が出来なくなっていたので、何度かせき込む事になった。


「ゲホ、ゲホ、ゲホ! ゲホ…………ゴホッホッフ! はあ…………はあ…………」


「い、今の誰? え、誰の声なの? え、何?」


「…………清華」


「な、何よ」


「俺だって、昔はお前の事が大好きだった。自慢の妹だった。でも今のお前は何だ。頭に脳みそが入ってるとは思えないくらい浅はかで、馬鹿じゃねえか。俺に妹は居ない。そんな馬鹿な妹は持った事がねえ!」


「こ、この期に及んで…………私の事を馬鹿にするつもりなの!?」


「少しは自分の頭で考えてみろよ! いつまでメアリに脳みそ預けてんだこのスカポンタン! お前みたいな奴を脳なしって言うんだよ! 学校でも習わなかったか、自分の頭で考えて行動しろってさあ! そもそもおかしいって思わねえのかよ。兄貴との仲直りで首を締めましょうなんてどんな馬鹿でも思いつかねえぞ!」


「………………え?」


「もっと簡単に言ってやろうか。人と仲良くしたいのに手段が嫌がらせってのはどう考えてもおかしいだろ。それくらい気付けこの脳みそAカップの大馬鹿野郎! てめえの栄養は全部メアリにいってんのか、ああん!?」


 有難う、茜さん。


 彼女が清華を惑わせてくれなければ、俺は失神していたし、そのまま死んでいた疑惑すらある。あの時、清華の頭には完全に血が上っていた。俺を完全に殺すまで、戻らないくらい。言いたい事はまだまだあるのだ、こんな所で死んでられるか。


「完璧、完全、究極! 周防メアリは確かにそう呼ばれても仕方ないスペックかもしれねえ! だが、俺の事を一番よく分かってるのは俺だ! 何でアイツに頼った、何でアイツの言う通りに実践しようとした! 俺が死んだら仲直り処の話じゃない……お前の人生まで滅茶苦茶になるんだぞ!」


「―――で、でもこれなら絶対仲直り出来るよって! メアリさん言ってたもん!」


「アイツの言葉に耳を貸すな! アイツの言葉に従うな! アイツは人の命なんて何とも思ってない根っからの異常者だ! 俺がアイツを嫌いなのは、そんな異常者が違和感なく受け入れられてる現状が気持ち悪いからだ、人間とは思えないからだ! 清華。お前が本当に仲直りしたいと思ってるなら。本当にお前が俺の妹なら、考えろ! なあなあで流すな、周りに倣うな! どうして法律が歪むのか、どうして校則が歪むのか、どうして全ての秩序がアイツに塗り替えられるのか! 俺達にそんな事は出来ない、でもアイツは出来る! どう考えてもおかしい! 清華! お前は俺の事を醜くなったと言ったが、メアリに関わった時を除いて、俺の何処が変わった! 何処が醜くなった! 言ってみろ!」


「そ、それは…………」


「物事には全て理由がある。過程がある。結果しかないのはアイツだけだ。もう一度聞くぞ、俺の何が変わった! メアリへの態度が酷いのはアイツが嫌いだからだ。それ以外はどう変わった! 何故変わった! お前の自慢の兄貴に何があった! 家族なら答えてみろよ!」


「え、えっと………………………………」


 清華は答えられなかった。


 答えられるはずも無かった。


 俺は生まれた時から何一つとして変わってない。変わったのは周囲、そして家族の方だ。俺は醜く『なって』などいない、『なった』のは家族の方だ。これは噂と同じ、怪異と同じ、茜さんと同じ。『メアリが嫌い』という事実が独り歩きをした結果、尾ひれがつき、偽りが生まれたのだ。即ち俺の醜さとは『メアリを嫌いである事』に他ならず、それ以外の理由はない。そしてその醜さは元々のものであり、決して何かが変わった訳ではない。


 だから理由を付ける事は出来ない。何故なら本人達も良く分かっていないから……『メアリが嫌いだから何となく』という感情で、今まで俺に酷い事をしてきたから。


「……………………あ、あれ? 何にも…………変わってない? で、でも兄貴は実際醜くなって、メアリさんは実際素晴らしくて……あれ? あれ? お、おかしいよ兄貴。噛み合わない。全然噛み合わない………………ど、どっちが正しいの! どっちも正しい気がする。でもどっちも間違っている気がする。ねえ兄貴、どうすれば良いの? どっちを信じれば良いの?」


「自分を信じろ、清華!」


「――――――!」


 完璧にテスト範囲を勉強していても、いざ本番になった時、一問だけどうしても分からない問題がある。


 やり方としては最初の答えで合っているが、脳が違うと告げている。


 そちらの答えに変えてみれば脳はしっくり来たが、やり方としては間違っている。


 どちらが正しいかなど分からない。答えとして提出した方と逆の方が正解なのは珍しくない話だ。だが、他人はテストの答案を書いてはくれない。選択するのはいつも自分であり、自分でなければならない。


 どっちを信じればいい? どっちも信じなければいい。他人は他人であり、自分は自分だ。もしその他人が完璧だったとして、間違えない保障が何処にある。自分以上に信じられる奴なんて存在しないのだ。


「大嫌いな兄貴なんて信じなくていいし、バケモノのメアリなんて信じなくていい! お前の判断だ! お前の人生だ! 他人に預けるな!」


「あ、ああ…………私、でもどっちを…………ああ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああ! 分からない! 分からない分からない分からない! 分からない間違えたくない恥をかきたくない! どっちなの! どっちなの私は……私はどっち……私は何を…………いや、いや、いや、いや、いやあああああ!」



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