甘えん坊の子供

「…………なにこれ、ぜんっぜん何にも手掛かりがないじゃん!」


 メアリさんに聞いた『絶対』に兄貴と仲直り出来る方法とはまた別に、私は自分の力だけで兄貴と仲良くなるべく、兄貴の部屋を探索していた。それにしても、やはり分からない。大嫌いな兄貴とどうして離れたくないんだろう。それを考えると頭が痛くなる。何かに邪魔されてる訳じゃなくて、感情が本当にぐちゃぐちゃで、整理するには相当の時間を要する事が分かっているからだ。


 兄貴の部屋に、仲直り出来そうな手掛かりは一つも無かった。


 好きな女性のタイプ、好きな食べ物、嵌っている趣味、好きな色、ペットが好きかどうか。下らないものでも何でも良いのに、兄貴の部屋にはそういう個人の趣味が垣間見える『色』が存在しないせいで、私は些細な情報を掴む事さえできなかった。至極どうでも良い情報さえ、この部屋からは全く読み取れない。こんな事があっても良いのだろうか。これではまるで……兄貴の存在がいつでも消せるみたいではないか。



 ―――そういえば私、兄貴の事何にも知らないかも。



 腐っても家族だ。他の人よりは知っている。しかし全てではないし、そもそも兄貴の全てを知る存在など果たしてこの世に居るのだろうか。兄貴はメアリさんが嫌いで、それ故に誰からも理解を拒絶される存在。それは家族である私からしても例外ではなく―――分からない。


 メアリさん本人も兄貴について知っている事は極僅かで、仲直りの参考になりそうな情報は一つも無かった。するとこの世界の誰も―――本人を除いて、兄貴を知る人物なんて、居ないのか?


「…………ん?」


 ふと机の上にある写真立てが視界に入った。中は空だが、家族の誰も、こんなものを買った覚えがない。兄貴と写真を撮ろうなんて考える人物は居ないから、兄貴自身も買う筈がない。となるとこれは……誰かに貰ったもの、という事になる。


 少し考えたが、兄貴に何か渡しそうなのはメアリさんくらいしか居なかった。やはり手掛かりにはならず、か。やはり間違える可能性のある自分の意見など捨てて、メアリさんに従った方が良いのか。あの人は絶対に間違えないし、絶対に失敗しない。必ず最良の結果を私達に与えてくれる神様みたいな人だから。


「…………」


 少し話が逸れるが、私達には思い出が無い。


 兄貴がメアリさんを嫌っていると判明して以降、私達はいつも兄貴をつま弾きにした。私の部屋には家族で行った旅行の場所、或は集合の写真がたくさんある。アルバムとして纏められてもいる。そこに兄貴の居場所はなく、私達の隣に居たのはいつだってメアリさん。本来兄貴が居たであろうスペースに、いつも彼女が収まっている。それが悪いとは言わない。大嫌いな兄貴と一緒の写真に入るなんてそれだけでも寒気がする。だからそれは良い。最良だ。



 ……なのに、どうしてこんなに、気持ちが暗くなるんだろう。



 メアリさんも「創太と仲良くなってくれれば私も嬉しいな!」と言っていたし、早く兄貴と仲直りしたいな。 












 




 




「美味しかったのう、創太♪」


「そうですねー」


 和菓子が夜食になり得たかという疑問については、イエスと答えさせてもらう。あれだけの量を持って来たので当然だが、お腹いっぱいだ。


「…………命様~」


 しかしこの夜食の間に俺が耐性を得る事は遂になかった。命様の色香に当てられ、酒を飲んだ訳でもないのに俺の理性は現在低下状態にある。でなければ命様を押し倒し、谷間に顔を埋めるなんていう行為が、俺に出来よう筈も無かった。


 彼女の方が迷惑がっていたのならまだ理性を取り戻せていただろうが、それ処か歓迎されてしまっている。命様は嬉しそうに着物の帯を緩め、更に胸を開けさせた。


「おお。お主にしては珍しく甘えるのう。どうかしたか?」


「…………何だか、今日はとても…………眠いです~」


 無理もない。俺は命様に出会うまで常に神経を張り、緊張状態にあった。眠いと感じたらそのまま眠るのではなく、寝た方が良いという判断の下、眠っていた。今日みたいに耐えられなくなるのは…………本当にいつぶりだ。


 凍り付いて、刺々しかった心が、命様に溶かされていく。


「ククク……そうかそうか。では眠るとしようかのう」


「ふぁい~……ねまぁしょうぅ…………」


 近距離と言わず現在は零距離だ。密着状態にあり、それも乳房の中に顔が埋められている。とても暖かい。類を見ない温かさだ。それと同時に頭のクラクラが強くなり、理性の低下が著しくなる。命様から離れたくない。この柔らかさを、この温もりを手放したくない。


 それはさながら幼子の様に。俺はぴったりと命様に張り付いてしまった。


「愛くるしいのう、お主は。ほれ、気持ち良いか? ん♪」


「…………ふー! ふぁい…………!」


 乳房の側面から圧力がかかり、俺の顔を挟む力が強くなる。この数時間の間に、檜木創太は命様に骨抜きにされてしまった。こんな事をされれば誰だって虜になってしまいそうだが、少しばかり待って欲しい。その判断は早計かもしれない。



 創太は愛された事がない。



 こんな事を言えば勿論語弊が生まれる。メアリと出会う前は確かに愛されていた。憎む要因が無いから、それは間違いない。しかし彼とメアリが出会ったのが幼稚園の頃であり、そこから現在に至るまで彼が愛ではなく憎悪を受けていたのなら、やはり前述の発言に間違いは無い事になる。


 愛情は注ぎ続けなければいつかは枯れ果てるもの。生まれてからメアリに出会うまでの愛情と、出会ってから今までの憎悪とでは勝負にならない。拮抗など夢のまた夢だ。


 そこで急に純粋な愛情を注いでくれる人物が表れたら、骨抜きになるのは当然の事である。


「全く愛らしいのう、お主は! 常時この姿で居られぬのが誠に残念じゃ。それが叶いさえすれば、お主の全身を包み込んでやったものを♪」


「……へー?」


「ん、気になるか? 何、そう大した事ではない。妾の着物を大きくして、お主を内側に入れるだけ。全身で妾を感じられるのじゃから、嬉しいじゃろう? ククク♪」


 それは、まずい。


 非常にまずい。


 何がまずいかは説明不要だ。顔を埋める以前に、距離が近いだけで頭がクラクラするのに、そんな事をされたら精神がくたばってしまう。大体着物の内側って、命様は何も着けていないから…………ええッ?


 少し目が覚めた。誇張したつもりだったが、精神がくたばるという表現は全く誇張していなかった。それどころかちょっと低めに見積もっている疑惑がある。



 でも凄くそそられる!



 動揺したり素直に興奮したりと俺の心内は忙しい。命様はその動きを見抜き、また楽しそうに笑った。


「…………創太。お主は妾の事が好きか?」


「だ、大好きですッ」


「そうか。妾もお主の事が好きじゃ。妾達、両想いじゃのう♪ ならばいっしょに眠ろうか、のう?」


「は、はいッ」


 俺の同意を得たと同時に、何か布のようなものが覆いかぶさった。驚いて命様の谷間から顔を離すと、俺達はあの場から移動する事なく―――いや、足を使う事無く、社の奥で俺の用意した毛布に包まっていた。敷布団の方は命様がいつの間にか出した。こちらの理解が追いつくと同時に、壊れていた社の扉が激しい軋みを立ててバタンと閉まる。


「み、命様……」


「んー?」


「その……またお胸を貸していただけると」


「クハハハッ! 妾の乳房はお主の枕か? 良い、赦そう。お主が本来受ける筈であった愛情を、妾が与えてやろう。今宵は安心して眠ると良い…………ううむ。こうして本来の姿を取り戻してしまうと自我を失うやもと思っておったが、流石は妾。今まで通りじゃな」


 目を閉じて、遠慮なく命様の谷間に再び顔を埋める。とても暖かく、柔らかい。肌の温もりが、やはり一番好きだ。何だか俺を守ってくれる感じがする。


 家では両親から物理的暴力を交えた説教であったり、顔へのエアガン連射であったり、ベッドからの叩き落としであったりと今まで碌な目に遭わなかった。そんな場所では決して得られなかった、得ようとも思えなかった感覚だ。


「…………命様。普段も巫女服の下って、何も着てないんですか?」


「当然じゃ。この時程ではないが、普段の妾も見かけ以上はあったりするんじゃぞ? お主には刺激が強すぎる故、見せられぬがな」


「…………見たい………………です」


「水浴びの際に、妾の興が乗ったらな♪ ほれ、もう眠るが良い。ここにお主の敵は居ない。お主と妾の二人きりじゃ………………………………」



 その日の夜。俺は誰からの妨害も受けず、熟睡出来た。



  
















「え? 私の事が知りたいの?」


「はい、教えてくれませんかッ!」


 兄貴の事を何も知らないのと同じくらい、私はメアリさんの事を知らなかった。その事に気付いた今となっては、むしろ知らない人をどうしてここまで好いているのだろうと、疑問にさえ思った。その理屈は未だに分からないが、でも理屈が無くても、メアリさんは実際良い人だから好いているのだろう。それ以上の理由は、もしかするとないかもしれない。


「うーん。私の事が知りたいって言ってもなあ、尋ねられた事がないから困っちゃったよ。取り敢えず、出生から話そうかな」


「え、出生? そ、そんなの言われても困るんですけど」


「じゃあ何か知りたい事あるかな? 聞かれた事には答えるよ」


「…………メアリさんは、どうしてそんなに完璧なんですか?」


 それはきっと、誰もが知りたい事だと思う。周防メアリはどうして完璧なのか。どうして失敗せず、どうして皆から好かれ、どうして間違えないのか。私もそうだったけど、皆、盲信しているばかりで、少しもメアリさんの事を知ろうとしていないから、多分これを聞いたのは私が初めて。


 メアリさんは眉間を寄せて困り果てた顔を浮かべた。


「どうして完璧なのかって言われても……完璧のつもりはないんだよ。私は自分が出来る事をやってるだけだし、自分がやりたいと思った事にチャレンジしてるだけだし、それが全部成功してるってだけ。ほら、それにさ。完璧なら創太も私の事を好いてる筈でしょ? 私は創太の事好きだけどさ」


「え…………兄貴が好きなんですか!?」


 メアリさんは羞恥心から頬を染め、慌てて付け加えた。


「あ、友達としてだよッ! でも創太の方は私の事嫌いだし、誰かが嫌ってるって事なら、私は完璧じゃない、でしょ? だから私には答えられないよ」


「じゃ、じゃあどうして兄貴以外の人から…………好かれるんですかッ? どうして警察の人は、メアリさんの意見を尊重するんですかッ?」



「あ、それなら答えられる。それはね、清華ちゃん。皆、良い人だからだよ!」



「良い人だから……?」


 今いちピンと来ない。抽象的だからだろう。メアリさんは私の足りない理解力を補う様に、こう続けた。


「私は完璧であろうとはしてないけど、善人であろうとはしてる。同じ善人なら絶対に分かり合えるって私信じてるの! 警察は正義の人だし、それなら分かり合えない筈がないよね」


「な、成程! そ、そうなんですかッ」


「うん! 私が清華ちゃんの仲直りに協力するのもね。創太とも分かり合えるって信じてるからなんだ。創太って本当は優しいんだよ? それは清華ちゃんだって分かってるよね?」


「そ、そうですね!」


 少しでもメアリさんに不信感を抱いた私が愚かだった。この人は神様に愛されている。いや、神様その者かもしれない。この問答を経て、不確かな予感は実感に変わった。メアリさんは絶対間違えない。間違える筈がない。だって、心に一切の闇を抱えていないから。そんな人が間違う訳が無いのだ。


 彼女は自らを完璧じゃないと言うが、それは違うと私は思う。メアリさんは完璧だ。兄貴に嫌われている程度の事が欠点になるとは思えない。メアリさんは総理大臣になるべきだ。それも終身的になり、この国を導くべきだ。そうすればこの国もきっと変わる。ニュースでは不況がどうだと言われているが、彼女が国のトップになれば、それも一瞬で解決出来るだろう。


 話せば話す程、その確信は強まる。メアリという人間の事が好きになっていく。そして同時に、兄貴の気持ちが一層分からなくなる。どうしてこんな完璧な女性を嫌いだと言えるのだろう。こんなスタイルが良くて、外見も良くて、教養もあって、間違えない人なんてこの世に二人と居ない。嫉妬すら出来ない完璧な存在と言っても過言ではない。何故兄貴だけが嫉妬しているのか。


「め、メアリさん! じゃ、じゃあメアリさんの伝説が本当かどうか教えてください!」


「伝説?」


「家に入ってきた強盗を一言交わしただけで改心させたとか! 自殺しようとした人の手を握るだけで、その人が自殺を止めたとか! メアリさんのお蔭で定期考査全学級オール百点とか! 歩きで会社に行きたい人の為に電車を丸一日止めて、その日電車を使う筈だった全員を歩かせて、健康にしたとか! 本当ですか!」


「それって、伝説なの? うん。本当だよ、全部」


「凄い! 凄いですメアリさん!」


 私も兄貴と同じ不良になってしまった。メアリさんの話を夜明けまで聞いていたのだから。このまま寝ると、間違いなく寝坊して学校に遅刻するけど、別に良いよね。メアリさんと言葉を交わす方がメリットあるし。校長先生も「メアリさんはこの町の誇りであり、他のどんな厳密で綿密なルールも、メアリさんに関わる事に比べれば下らない事だ」と言って喝采を浴びていた。


 絶対に間違わない者に従えば、私達も絶対間違えない。それが間違い続ける私達が、唯一間違えない最善の方法。




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