七日七晩の契りは遠く

 それは舞だった。


 黒百合の扇子が円を描くように振るわれる。天を衝くと同時に扇子が閉じ、振り下ろされると共にバッと開いた。


「…………ん?」


 舞踊への知識は持ち合わせていないから、見た事のない珍しい舞とは言い切れない。詳しい人からすれば有名な舞なのかもしれないし、或は既に失伝した舞なのかもしれない。それはさておき―――果たして舞とは、舞姫の姿形をも変えてしまうものなのだろうか。


 くるりと身体が廻る度に命様の髪が伸びていく。黒い巫女服は振袖の黒い着物になり、蝶の形を模した紅色が狐の松明さながらに差し込んだ。扇子が命様の顔を隠す度にその顔は大人っぽく妖艶になっていき、体つきは徐々に煽情的になっていく。


 閉じた扇子を身体もろともぐるりと回し、振り上げると共に扇子を開く。今度はそれを逆回転でもう一回。彼女の身体が再びこちらに戻った時、着物が大きく開け、命様らしからぬ豊満な乳房が人間離れした谷間を形成していた。


「…………え、え、は? ん?」



 誰?



 そこまで成長すると、いよいよ本人かどうかを疑わざるを得ない。いや、その浮世離れした美貌は紛れもなく神―――命様には違いないのだが、スタイルからして違い過ぎる。だが俺の大好きな黒髪は伸びただけでそのままだし、着物に変化したとはいえやはり内側には何も着けていなかった所を見ると―――本人だ。


 舞はその後も十分以上続き、最後に扇子が上空に投げられた所で、命様は動きを止めた。そこにはもう、かつての面影が僅かしかない。


 あれだけ慎ましく巫女服に身を包んでいた彼女が、惜しげもなくその美しい足を太腿まで曝け出している。古の存在にすぎず、今の今までこの神社に時代と共に取り残されてきた命様が下着を着けているなんて事もなく、正真正銘の生肌が、水浴びの時でさえ碌に見られなかったものが、俺の目の前にあった。


 扇子はいつまで経っても、落ちてこない。


「こんな所かの」


「―――!?」


 瞬きと同時に、命様は俺の背後に回っていた。幽霊なんかが良くやる『一瞬消えて現れる』とは訳が違う。あれは『視えない』奴に対してのみ有効な騙しであり、『視える』俺にはただ近寄ってきただけにしか見えない。その俺が見えなかったのだから、それは正真正銘の瞬間移動に他ならない。


「い、いつの間に……!」


「ククク♪ 真の姿となった妾を畏れたか! 社から出られぬ事に変わりはないが、この程度の事は造作もない。ん、どうじゃ? 妾の美貌に言を失ってしまったか?」


「…………あの」


「ん?」


「本当に命様……ですか?」


「何じゃ、疑っておるのか?」


 疑っている訳じゃない。単に本人と信じられないだけだ。開けた着物から見える谷間は、俺の顔など容易に埋もれてしまいそうだ。この近距離だと猶更そう感じる。そしてよく考えてみたら、巫女服という服の仕様上見えなかっただけであり、元々これだけの大きさがあったのかもしれない。事実、抱きしめた時の彼女の身体はとても柔らかかった(女性の身体は元々柔らかいが)。


「いや、疑ってる訳じゃないですけど……」


「何処からどう見ても妾は弓月命じゃろう。ほれ、良く見るが良い。創太のだ~い好きな命様じゃぞ♡」


 見せつける様に太腿が鼻先まで近づいた所で、俺は思わず飛びのいた。


「…………いや、大丈夫です。分かりました、命様ですね、はい。ええ」


 近くに居るだけでクラクラしてくる。力を取り戻した命様は、妖艶さという要素に全ての力が振られていた。俺の周りには周防メアリというこの世の者とは思えない(別の意味で)美少女が居るが、そんな彼女にさえ妖艶さは存在しない。つまり何が言いたいのかと言うと、耐性が無いのだ。


「て、っていうか何でそんな開けてるんですかッ! は、破廉恥ですよ!」


「……お主は異な事を申すのう。美貌こそ見せつけずして何を見せつける。時に美貌は権力となり得るものじゃ。妾は生来より神であるから権力など必要ないが……ククク♪ 今の妾は人の心を見抜ける。お主が妾に抱く劣情もちゃんと見抜いておるぞッ」


「なッ! いや…………その…………うわ!」


 動揺から瞬きが早まる。二回目の瞬きで俺は社の天井を仰ぐ事になった。命様の移動先は俺の腰であり、抵抗する間もなく馬乗りになられたのだ。着物の重さはかなりのものと聞いた事があるが、五キロくらいしか感じない。軽すぎて普通に動けてしまいそうだ。


「『動くでない』」


 上体を起こして命様を退けようとした正にその時、体が突然動かなくなる。それは状況から考慮しても、俺の身体が彼女の言葉に従ったとしか思えなかった。


「な…………こ、こんな体勢じゃ、和菓子食べられません……よ?」


「それは後じゃ。今、お主の身体から痛みを抜く。ほんの少しだけ、待て」


 言われた通り硬直に抗うのを止めると、体中に感じていた痛み―――特に腹部で疼いていた痛みが跡形もなく消えてしまった。気のせいではない。現に腕の痣も、手に付いた絵の具を洗い落としたが如く綺麗さっぱり無くなっている。


「……ありがとう、ございます」


「うむ。平伏せよ! ―――所でお主に一つ、問うてみたい事がある」


「な、何ですか?」




「もしも妾と夫婦の契りを交わせるとしたら、お主はどうする?」




 こんな状況で、プロポーズ!?


 命様からなので、逆プロポーズだ。しかも断れる状況じゃない。断ったらこのまま既成事実を作られそうな気がする。俺としては大歓迎である。


「きゅ、急にどうしたんですか!」


「うむ。率直に言って、妾はお主の事が大好きじゃ。この好意は我慢できるものではない。最早どのような存在であってもお主の事を渡しとうない―――今の妾は人の心が見えると言ったが、お主が妾に隠したい事も、全てお見通しじゃ」


 それは四季咲絢乃の事だろう。そして名も知らぬコンビニ店員の事でもあろう。後者はともかく、前者は俺が助けを求められた人物でもある。故に命様の怒りに同調し、素直に名前を教える訳にはいかなかった。


「此度は水に流すと言ったし、それを忘れたつもりはない。じゃがお主の心を通じて、その仕打ちを目撃した時、妾は怒りのあまり理性がどうにかなりそうじゃった。輪廻転生を経ても尚、その魂朽ちる時まで呪い続けようかと悩んだ程じゃ」


「やり過ぎですよ!」


「とはいえ、許した事柄を追及しようとは思わぬ。そこで妾は考えを変えた。お主を俗世から隔離してしまえば良いのではないかと。お主がここに留まってくれれば妾はとても嬉しいし、お主もこれからはあの様な仕打ちには遭わなくなる。どうじゃ?」


 どうと言われても、断れる状況じゃない。万が一断れる状況だったとしても、俺は断らないだろう。好きな女性に好きだと告白されて断るマゾヒストは居るのだろうか。少なくとも俺は違う。


 俺は苦しみ続けた。怒り続けた。決して折れなかったし、捨てなかった。人間の最後のプライドとして、自分の意思を持つ事を止めなかった。家族に裏切られても尚、俺は屈しなかった。


 それはきっと、いつか救いが来る事を望んでいたからだ。


 そしてその救いとやらは、きっと今、この瞬間。神様との遭遇さえ、一生に一度あり得ないくらいの幸運なのに、それに加えて命様はとても懇意にしてくれる神様だ。次は絶対にない。救いの手をわざわざ払うつもりなんてない。


 俺だって普通の人間だ。メアリが嫌いなだけで、幸せになりたいという気持ちくらいある。


「…………で、でも俺、まだ学生ですから。その…………で、でも。俺で良かったら―――」


 そこから先の言葉が出ずに、三分が経過。不意に、命様が微笑んだ。


「―――――ククク♪ ククククク! そう急くな、愛い奴め。今のは妾なりの……ほんの冗談じゃよ」


「―――は?」


 体の力が、一気に抜けた。それでも硬直は解けないので、俺は動けない。


「冗談だったんですかッ? お、俺が真面目に答えようとしてるのにふざけないでくださいよ!」


「ククククククク! すまんのう、悩むお主があんまりにも愛おしくてついつい……訂正しよう。冗談ではないが、どちらにしても夫婦の契りは不可能じゃ。妾の方に問題があっての」


「問題ですか?」


「この姿となれるのは望月の頃のみ。それが過ぎれば、お主の知る通りの姿に戻ってしまう。じゃが妾との夫婦の契りとは、即ち七日七晩の子作りを以て交わされるもの。当然じゃが、七日も同じ月が浮かぶ道理はない。故に不可能じゃ」


 言っている事は正しいのだが、命様の発言にインパクトがあり過ぎて、その他の言葉が全く耳に入ってこない。特に七日七晩の……という部分が。


 メアリが嫌いで、メアリを好きな奴も嫌いというスタンスで生きてきた俺は、当然だがそういう経験がない。七日七晩と言われても実感が湧かないが、体力が保たない事だけは分かる。というかそこまで体力が持つ奴は、果たしてこの世に居るのだろうか。



 ―――それはそれとして、凄くそそられる。



 どうせ隠しても読まれるので、思考に関しては自重しない事にした。


「じゃが、信者が増え、妾が常時この姿になれる日が来れば、改めてお主に問おう。お主を渡したくない、救いたいという気持ちは本物じゃ。神は個人を救わぬが、これは弓月命としての正直な……気持じゃ♪ もう『動いてよい』ぞ」


 彼女の言葉と共に、硬直が解除される。体に異変は無い。俺は俺の意思で動けている。


「…………さて、気を改め、月でも眺めながら和菓子を食べるとするかの! 創太、お主も隣に来ぬか、ほれ!」


 そう言って命様は無邪気な笑身を浮かべて、横の床をポンポンと叩く。姿が変わってからは色っぽく、煽情的なスタイルとなった彼女だが、そこには確かに俺の知る『命様』がある、やはりどんなに姿形が変わろうと、本質まで変わる事はないのだ。


「…………はい!」


 俺は命様の隣に座り、みたらし団子を手に取った。随分と遅い夜食……になるのかどうかは分からないが、俺にとっては愛しい神との大切な時間、そして家族の団欒でもあった。


「命様」


「うん?」


「月が…………綺麗ですね」


「……全くじゃな」


 辛い思い出しかない俺に、命様を楽しませる様な話はない。しかし、これから楽しい思い出を作る事は出来る。この山は俺と命様との縁を繫いだ聖域。メアリの名を聞かずに済む唯一の場所であり、俺の帰る場所。俺の全てを受け止めてくれる場所。



 信者や元凶を赦せず、怒りを抱き続ける醜くも矮小な俺を、それでも好きだと言ってくれる存在が居る場所。



 それがここだ。


「―――ああ、そう言えば命様。隣町に住む不思議な少女の話をご存知ですか?」


「ん、それは一体なんじゃ?」


「俺とは違って、一切の人ならざる存在を受け付けないとされる女の子の話です。都市伝説程度の信憑性しかありませんけど、これくらいしか話のネタが見つからなかったもので。聞いてくださいますか?」


「うむ。真偽の分からぬ噂話は、悪意が介入せぬ限りは好きじゃぞ! 想像が膨らむからのう―――」


 最悪かと思われた一日は、幸せと共に更けていく。 






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