神人水入らず



 命様が水浴びと聞いて喜ばない俺ではなかったが、それで悲しみが打ち消されるほど、浅く打ちひしがれている訳でもない。自分の力で立ち上がる事には成功したが、それきり体力を使い果たしてしまったので、泉までは命様の先導で向かう事になった。


「全く、手間のかかる信者じゃのう! 妾が手を引かねば一歩も動かぬとはどういう了見じゃ!」


「…………すみま、せん」


「おおおおう、泣くな。泣くでない。ほれ、足元は整備されておらぬから気を付けるのじゃぞ」


 神社の裏側から伸びる道を歩いて数分。果たして黄泉平山にこんな道があったのかと疑いたくなる所だが、そんな事を言い出してしまえばまずこの神社の存在から俺は知らなかったので、多分あったのだろう。ここで自殺した者に話を聞けば真偽はハッキリするのだが、その手の存在に絡むと十中八九粘着されるので、したくない。


 何故実在証明をしたくなったかと言うと、道を歩いている内に気候的に生まれる筈のない霧が発生し、道を進む毎に深くなっていったからだ。そんな霧の中でも命様の姿だけは確かに確認出来るが、もう周囲の木々すら視認が困難になっている。ここは本当に現世だろうか。今日の天気は霧が出る程湿度が高い訳でもないし、まして俺の涙が蒸発して霧になった……というのはフィクションにしても限度がある。


 それにもう、泣いてない。一応。


「本当に…………この先に泉なんて、あるんですか」


「妾が信者に嘘を吐く訳なかろう。それに泉の存在が嘘であれば、妾の身体が濡れておる理由に説明がつかぬであろう。ほれ、もう少しじゃ。洞窟を抜ければ泉は目前。もう少し歩けるかの?」


「………ッはい」


 命様の言う通り、洞窟が見えてきた。裏の洞窟とはまた違う洞窟らしいが、黄泉平山にこんな洞窟があったら、誰かが見つけていそうなものではある。ここは自殺の名所として有名で、実際ここの上位互換と言っても過言ではない樹海はオカルト好きの間でなくともホンモノとして有名だ。あまりにもホンモノ過ぎて逆に近寄られないが、もしかしてこの山もそういう感じなのだろうか。


 しかし、古くからこの山に足を運んでいない限りは分からない事か……いいや。よく考えたら、この洞窟と神社に関しては、誰の目にも留まっていないのは予測でも何でもなく確かな事実ではないか。


 もし俺みたいに神社を見つけたなら、間違いなく怖いモノ見たさで入るだろうし(そもそもこの山に来る時点で自殺志願者か一種の怖い物好きである事は確定している)、足を踏み入れれば『視える』かどうかはともかく命様からは視認される筈なので、もし誰かが過去に訪れていたなら、俺と出会った時の彼女の反応はおかしい事になる。


 とはいえ洞窟は洞窟。物好きが見つけている気がするのもまた事実だ。泉にしても湧き水にしても、どうして命様しか知らないのだろう。俺には、それが不思議でならなかった。


「…………この洞窟を抜けた先に、泉が」


 洞窟と言ってもその全長は随分と短い。出口の光がもう見えているくらいだ。いや、出口というより……天井だ。天井に大きな穴が開いていて、そこから光が差し込んでいる。足元には丁度足掛かりとして使えそうな段差があり、多少服が汚れる事を覚悟すれば、俺でも登れそうだ。


「うむ。今はお主と妾だけの秘密の場所じゃ! くれぐれも他の者に漏らすではないぞ! 漏らしたら妾…………泣くからな!」


「……あはは。なんか命様、いつも泣いてますね」


「仕方ないじゃろう!? 信者がお主しか居なくてまともに神通力など出せんのじゃ! 今に見ておれよ、信者がイナゴの如く増えれば泣き寝入りでは終わらぬ! 今まで妾を泣かせた数だけ、お主に地獄を見せてやる―――と言いたい所じゃが、神通力を取り戻した日には、まずメアリとやらに天罰を下す必要があるのう」


「え?」


「妾の大切な信者に大層な心の傷を負わせた罪は重いぞと、あやつに教えてやるのじゃ。人の子が神を騙るでない…………との。ククク、妾は悪神故な! 悪い事を考えるとついつい口元が緩んでしまう!」


 そう言って、命様は無邪気に笑った。そこには俺への慰めもあるのかもしれないが、表情を見ている限り、単にそれをやりたがっているだけなのではという気もしてくる。悪意なく前述の発言をしたならとんだ邪神様だが、優しい命様の事だ、俺の味方である事を強調すべく、わざとそんな言い方をしたのだろう。


 本当に不思議だ。同じ人間は誰も優しくないのに、格上である筈の命様が、こんなにも慈悲深く、好意的だなんて。


「少しは元気になってくれた様で安心したぞ。お主の笑顔を見るのが、最近の楽しみじゃからな。元気になってくれねば妾が困る……ではついてくるが良い」


 雑談も程々に、引っ張られる形で洞窟の内部へ。奥部の方にも行けない事はなかったが、戻れる保証は何処にもないので、俺の視線は直ぐに天井へ。差し込む光は、アニメや絵画の中みたいに綺麗だった。これ程完璧に差し込んだ光というものを俺は知らない。見上げれば眩しいが、不快感は覚えなかった。


「ほいッ」


 物理法則に縛られていない存在はこういう時に便利だ。文字通りひとっ跳びで穴を抜けて、すたすたと何処かへ行ってしまった。


「あ、お待ちください命様! 俺も……お供しますから!」


 足がかりに使えそうな段差を順序良く駆け上がり、勢いよく跳躍。何とか上半身が穴の縁に引っかかってくれたので、そこからは全身をこすりつける様にして上り、脱出。お蔭で服が土まみれになってしまったが、そんな些末な事など気にもとまらないくらい、俺は目の前の景色に圧倒されていた。




「…………すっげえ」




 こんな場所が黄泉平山の内部にあるなんて嘘だ。どう見てもここは山の中ではない。それにしてはあまりに水源が豊富過ぎる。


 洞窟を抜けた者を待ち受けていたのは、広大な泉だった。洞窟前までの霧は何処へやら、巨大な木々が強烈な日差しを遮り、穏やかな光だけが届いている。泉の深さは見かけではよく分からないが、木々の根元がどっぷりと浸かっている事から、俺の腰ぐらいはあると考えられる。


「驚いたか、創太!」


「―――命様ッ? その格好は……もしかして」


 俺が穴を抜けるのにてこずっている間に、彼女は着替えていた様だ。いつもの黒と赤の巫女服から、真っ白い湯帷子になっている。決してお洒落ではないが、命様の純真な性格にとてもマッチしていて可愛かった。


「うむ。水浴び用の衣じゃな。一人であればこんなものは着ないのじゃが、初心なお主に妾の裸体は早かろう? 何せ妾の裸体はこの世で最も高貴なる宝石にも劣らぬからな!」


 命様は両腰に手を当てて得意気に胸を張った。しかし俺の視線によからぬ情を感じたのか、段々とその余裕ありげな表情に不安が混じっていく。


「…………む、む? そ、創太? な、何か反応せよ! そんなじっと見られると……こ、怖いのじゃ。その眼はな、何じゃ?」


「命様と……水浴び。命様と………………命様………………」


「ひ、ひいいいい! 落ち着け、それ以上近づくでない! 取り敢えず、一度落ち着いてから服を脱ぐのじゃ、分かったな? 分かったならば返事をするのじゃ!」


「――――――命様ッ!」


「むぎゃああああああああああ!」


 悲しみが吹っ切れた訳じゃない。それでも―――命様と一緒に水浴びをするというのにいつまでも他の事を考えているのは失礼だ。


 ほんの一瞬。ほんの一瞬だけ俺は正直になって、本能のままに彼女に飛びついた。



 ドボンッ!



「お、お主は阿呆か!? 服を脱げと言うたであろうに!」


 ツッコむところはそこじゃないと思うが、命様は寛大だった。流石に己の肉体の美しさを自負している辺り、魅了してしまうのは致し方ない事だと考えているのかもしれない。


「済みません…………! でもよく考えたら、脱げないんですよッ!」


「何じゃとッ?」


「命様はそれがあるから良いかもしれませんけど、この場合俺って全裸じゃないですか! 今まで生きてきた中で、俺、自分以外に裸見せた事ないんで、物凄く恥ずかしいです!」


 厳密に言えば清華にも見せた事はあるが、それはまだ俺が幼稚園の頃の話だ。ノーカンだろう。あの頃の年齢は、男でも女でも体の作り方にさしたる変化はないし。


「だからと言って服を着たまま入る奴があるか、馬鹿者! 妾は気にせぬから、脱ぐのじゃ!」


「命様も着てるじゃないですか!」


「これはその為の服じゃ!」


「実は俺の服もそうなんですよッ!」


「神を欺こうとは百年早いぞ、創太! お主が脱がぬのならば妾が脱がしてやる―――観念せい!」


「断固として抵抗します!」


 どうしても俺を脱がせたいというのなら、命様もその服を脱ぐべきである―――と。



 我ながら神様を相手に下らない戦いを始めるのだった。    





















 兄貴が出て行ってから、私の心の中はぐちゃぐちゃだった。兄貴の事は大嫌いなのに、兄妹の縁が切れてしまったと考えるだけで胸の奥がツンと痛くなって、どうにも動きたくなくなって。お父さんとお母さんに相談しても、『あんなのが居なくなって清々した』としか言ってくれない。


 私も同じ気持ち。あんなクソ兄貴が居なくなって清々した筈。メアリさんが家に来ても、もう邪魔する兄貴なんかいないし、メアリさんへのヘイトを叫ぶ兄貴も居ない。兄貴と縁が切れて嬉しい筈。もうあんな奴を兄貴と呼ばずに済んで、嬉しい筈。


 なのにどうして…………どうして苦しいの?


 友達に話した所で、これは私のプライベートな問題。まともなアドバイスは期待できず、話せるとすれば、共通の知人である彼女しか居なかった。



「はい! もしもし。あれ、清華ちゃん? どうかしたの?」



「…………ぐす。すん、すん。メアリさん。私、兄貴と喧嘩しちゃった……!」


 そう、メアリさんだ。あの人は決して間違えない、決して失敗しない、兄貴を除けば誰からも嫌われない。その判断は絶対的に正しく、その言動は絶対的に正しく、その価値基準は古今東西ありとあらゆる人間よりも信頼出来る。何せたったの一度も間違えた事が無いのだから。


 自分の気持ちも、どうしたいかも分からない私にとって、絶対に正しい答えをくれるメアリさんしか、相談相手は居なかった。


「え、創太と? それはどうして?」


「分かんない……分かんないの! 兄貴がどうして急にあんな事言い出したのか。今まであんな事……一度も言わなかった、のに!」


「落ち着いて。清華ちゃんの頭の中は混乱してるかもしれないけど、一旦それを整理して、それから私に話して。大丈夫、いつまでも待つよ。創太が関わってるんだもの!」


「分かんない………………分かんないよ。私、兄貴の事が分からない。兄貴が何を考えてるのか分からない。兄貴の事嫌いだけど…………居なくなってほしくない…………嫌いなのに! 居なくなって嬉しい筈なのに…………もう何が何だか、分かんないのよぉッ!」


 こんな事は初めてだった。自分の感情には敏感なつもりだったし、見識も深いつもりだった。初恋を経験したときも、それが初恋である事に気付いたくらい、私は自分の感情というものを理解していた筈だった。


 なのにこんな……まるで全ての感情が同時に降りかかったみたいな複雑な感情。今まで感じた事もないし、二度と感じたくない。この感情について思う事は只一つ。非常に不愉快である事だけだ。


「清華ちゃんは創太の事嫌いなの?」


「嫌い……メアリさんを嫌ってる兄貴なんて嫌い…………メアリさんに嫉妬してる兄貴なんて、醜い兄貴なんて嫌い…………!」


「そう。じゃあ私の事を抜いたら、どう?」


「…………………………………………………………分かんない」


「うーん、そっか。それで清華ちゃんはどうしたいの?」


「それも分かんない。分かんないけど、メアリさんは絶対間違えないから、だからメアリさんに電話したの。ねえメアリさん、私どうすればいいかな? どうすればこんな気持ちとおさらばできるのかな?」


「もしその気持ちを味わいたくないって事なら、仲直りすれば良いと思うよ!」


「どうやって仲直りすれば良いのッ? ―――そうだ、メアリさん教えてよ! 兄貴は嫌ってるけど、メアリさんは兄貴の事良く知ってるんでしょッ! ねえ、絶対に仲直り出来る方法を教えてよ! 後戻り…………したいの! メアリさん!」












「いいよ♪ 教えてあげる。絶対に仲直り出来る方法でしょ? 任せてちょーだいな! これでも創太とは十数年来の付き合いなんだから!」  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る