喧嘩せずとも瞳は濡れる

 もう幾度となく上った山道なのに。今度ばかりはどうしてか足に来る。まるで急に重力が増したみたいで、神社前の階段を上り切る頃には、その場に倒れ込むしかなかった。


「はあ…………はあ……あああ……うう」


 涙が止まらない。目を擦っても擦っても擦っても擦っても涙が出てくる。何故だ。どうしてこんなに苦しい? どうして俺がこんな想いをしなきゃいけない。ずっと前から家族はメアリに取られていた。今更だ。泣く必要なんてない。『あいつとはもう兄妹じゃないあー清々した』の一言くらい言って見せろ。


「ごめんな…………ごめんな…………!」


 それしか言葉が出てこない。悪いのは俺じゃないのに、口を吐いて出るのは謝罪ばかり。悪態を吐いたっていい筈だ。どうせ何をしても文句を言われる立場にあるのだから、プライドとか礼儀とか配慮とか、そういうしがらみについては考えなくてもいい筈だ。嫌われ者は存在するだけでそれらを害している。俺に求められているのは配慮ではなく存在の抹消か、屈服の二つだけだ。 


 なのにどうして…………俺は一体誰に配慮して、悪態を止めているのだろう。自分が悪いなんてこれっぽっちも思ってないのに、誰に…………



「……創太。お主、何をしておるんじゃ?」



 階段を上がって直ぐに倒れ、動こうとしない俺を見て命様は露骨に困惑していた。しかし顔をあげる気にはならない。こんな情けない表情を命様に見せたくない。相手に幻滅されるとかそういう事ではなく、単純に俺が恥ずかしい。


「命様…………どうかお気になさらず。ちょっと……眠くなっただけです…………から」


「そうも行かぬ。お主の気配が訪れたかと思えば、急に動かなくなったんじゃからのう! どれ、妾が聞いてやるとしよう…………面を上げよ!」


「…………お断りします」


「なんと!? 妾がせっかく気を利かせたのに無駄にすると申すかッ! ……本来であれば不敬じゃが、余程悲しい事があったみたいじゃの。良い、特別に咎める事はよそう。その代わり、ちゃんと話すのじゃ」


「―――このままで」


「うむ。そのままで構わん。妾とお主とでは性別からして違うが、男児には譲れぬ一線があるのじゃろう? 理解はしているつもりじゃ。早う話せ。解決出来るとは限らぬが、話すだけでも楽になる筈じゃぞ」


 それはどうだろうか。話したらより一層俺は自分のした事に理解を示してしまって、辛くなるのではないか。そうは思いつつも、命様に促されては話さない訳にもいかない。一から説明すると心情的な部分がとてもややこしい事になると分かっていたので、何処から説明しようか悩んだ末に、


「…………兄妹、やめました」


 結果的な事実だけを述べる事にした。


 命様の手が俺の頭に置かれた。


「……以前、妾が言うた事を覚えておるかの。兄妹は仲良くあるべきじゃと」


「はい」


「…………妾には、お主達が喧嘩をしたようには思えぬ。最初から喧嘩をしていたと言えばそうに違いないのじゃろうが、何と言えばいいかの……後悔している様にしか見えぬ」


「……後悔ですか。そうかもしれません。俺から言い出した事なのに、何故でしょう。メアリが嫌いで、メアリを好きな奴も嫌いなのに。どうしてこんな悲しいんでしょう」


「それが家族というものじゃ。お主は妹に特別情を掛けていた人間なのじゃろう。ならば悲しいのは当然じゃて。何せ大好きな家族と、己の言葉で決別したんじゃからのう」


「大嫌いですよ、あんな奴!」


 そう、大嫌いだ。俺は妹の事が大嫌いだ。兄貴ではなく、最終的にはメアリの事を信頼したアイツが大嫌いだ。今まで情を掛けてきたのはこういう時に俺の味方になってもらう為だというのに、あの恩知らずはそんな事も分からずよく知りもしない女の側につきやがった。俺はアイツを赦さない。あんな奴の事なんて。



 あんな奴なんて――――――!



「もう、よせ」


 俺の心を見透かしているが如き瞬間に、命様の語気が強まった。しかし俺の頭の上に置かれた手は優しく、髪を梳く様に動いている。


「自分に嘘を吐いてまで、嫌う必要はない。メアリに肩入れしておるからと言って、その者にまで例外なく憎悪をふりまける程、お主はまだ腐っておらぬ。体裁としてそうせざるを得ないのだとしても、今はやめておくのじゃ。この神社には妾とお主の二人しかおらぬ―――のう創太、お主にとって妾とは何じゃ?」


「……………俺の、信じる神様です」


「うむ。ならばその神の前で偽りを申す事が良くないとは分かっておるな。故に真実を話せ。妾はどんな事があってもお主の味方じゃ。もし、それが絶対的に間違っていたとしても―――お主は妾にとって特別な存在じゃ。故に肩入れも無理のない事。妾が神であるからと遠慮する事はない。お主が優しい事を、正しい事を、知っておる」


 命様の手が、俺の顔を優しく持ち上げる。



「檜木創太。お主は優しい子じゃ」



 湿った感触と共に柔らかくも温かい双丘が頬に当たる。ささくれた俺の心を寛大な心で優しく受け止めてくれる命様には、何と感謝していいやら分からない。頑張って止めようとしていた滂沱の涙が、留まるところを知らずに流れ続ける。


「妾の言う事をよく聞くのじゃぞ、創太。神は基本的に特定個人を助けたりはせぬ。どんなに苦しくても、打ちのめされようとも、それが普通の神じゃ」


「…………ッうん」


「じゃが、妾はお主の事が好きじゃ。故に弓月命として個人的にお主を慰める。その荷物を見た所、泊まりに来たのじゃろう? 今日は思う存分甘えても良いぞ」


「…………ッでも。…………ッ命様」


「安心せい。嫌いになどならぬよ。むしろ妾はそんな姿を見せてくれたら嬉しく思う。それだけ妾は、お主に信用されているという事じゃからな」


 たったそれだけ。それだけの言葉でも、大好きな神様にそう言われて俺も安堵した。山の中というものあっただろうが、十数年ぶりに俺は人目も憚らず慟哭した。


「………ああ。うあああ。うああああああああ! ぐす、ううッうえええええ……うううううう…………アアアアアア!」


 今までは嫌悪や怒りといったネガティブな感情以外を抑えてきた。敵意を剥き出しに、ハリネズミの様に棘を張って寄せ付けないようにしてきた。それはメアリにも、メアリを好きな奴にも俺を理解されたくなかったからだ。


 だが、ここに、俺の事を好きだと言ってくれる存在が居る。


 人間かそうでないかは『視える』俺にとって些末な問題だ。大事なのはそういう存在が居るという事であり、それがたった一人でも、俺にとっては何物にも代えがたい救いになる。


「俺は…………妹……を! 妹に酷い…………事を!」


「お主は悪くない」


「………………最低な! …………兄貴だ」


「自分を責めるな。家族とて馬の合う合わないはあろう。気に病むな」


「………………ああああ。う、ぐッ、ぐす、う……!」


「……ふむ。まだ辛いか。仕方あるまい。妾だけの秘密の場所としておきたかったが、お主にも共有してやろう。感謝するが良いぞ!」


「……秘密の、場所? ッぐす」


「うむ。秘密の場所じゃ! かつてお主に柄杓で水を与えた時、裏の洞窟の話をしたな? 実はその洞窟を抜けた先が、まだあるんじゃなこれが。というか、お主が来るまで妾はそこに居たのじゃが」


「………………そ、それは?」





「平たく言えば泉じゃな。妾はお主が来るまで水浴びをしておったのじゃ」  




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