第41話 切り札は甘くとろける
『—―ユキちゃんなんていなくなっちゃえばいいんだ!』
キイの言葉を
だからつい大きな声でキイのことを怒ってしまった。彼女は今、ベッドのすみっこで毛布にくるまって震えている。
「キイ、落ち着いて、よく聞いて」
なるべく穏やかな声で、呼びかける。びくりと毛布のかたまりが震えたと思ったら、おそるおそるキイが顔を出した。今にも泣き出しそうなうるんだ瞳で見つめられると、胸が締め付けられそうになる。
でも今はユキちゃんのことだって心配だ。時刻はまだ昼前。赤羽さんはまだまだ仕事から戻ってこないし、キイの言葉でひどく傷ついているはずのユキちゃんのことを放ってはおけない。
「ちょっとユキちゃんの様子を見てくる。ひとりで大丈夫かい?」
毛布のすき間からちょこんと出したキイの頭を、ぽんぽんと優しくなでる。泣きそうな顔をしてはいるけれど、少しだけ表情が緩んだようにも見える。これならキイひとりで留守番させても大丈夫だろう。
そう、思ったのだけれど。
「……いなくなっちゃうの、ごしゅじん」
思わず身震いしてしまうような、心の芯まで冷え切った声だった。
「ユキちゃんが心配なんだよ。赤羽さん、今日は仕事で夜まで帰ってこないだろうから」
キイの様子がなんとなくおかしいような気はしたけれど、僕の言葉はちゃんと聞いてくれている。そして僕が立ち上がろうとした瞬間だった。
「ダメ! いかないで!」
毛布から勢いよくキイが飛び出した。振り回した毛布がテーブルに置いてあったマグカップにあたり、床に落ちて真っ二つに割れる。
それでもキイは止まらない。
「ダメだよ、ごしゅじん。キイをおいていったら。ごしゅじんはキイがキライになったの!? キイよりユキちゃんのほうがだいじなの!?」
両手をばたばたと振り回しながら、キイは僕にわめき散らした。
「キイ、落ち着いて」
なだめようとして近づくと、キイの振り回す手が当たりそうになる。
「イヤだ! ごしゅじんはユキちゃんのところにいったら、もうもどってこないもん!」
「戻ってこないわけないだろ。僕は絶対、キイを見捨てたりなんかしないっ」
なんとか落ち着かせようとするけれど、キイはぎゃあぎゃあと騒いだままなかなか聞いてくれそうになかった。こんなパニック状態のキイを置いたまま、ユキちゃんのところに行くことなんてできない。
インコに限らず、ペットの小鳥はパニックを起こしたように暴れてしまうことがある。原因は大きな音や地震などの外的要因、病気やダニなどさまざまだ。怖いのは、パニックを起こして暴れることで、小鳥がケガをしてしまうことだ。最悪の場合、そのケガのせいで命を落としてしまうことだってある。
「そっか、キイがユキちゃんにひどいことを言ったから……キイはわるい子だから。だからごしゅじんはキイのこときらいになったんでしょ」
キイ自身も、ユキちゃんに対して言ってしまったことは気にしているようだ。ただ、今のキイにとってその後悔は決してよい影響を与えないだろう。
「大丈夫だから安心して。絶対にキイを嫌いにはならないよ」
キイを落ち着かせてやるときは、いつも頭やほっぺたをなでていた。でも今のパニック状態では、うかつに近づくこともできない。とにかくキイを落ち着かせないと、マンションの隣の部屋にいるユキちゃんのところに行くこともできそうになかった。
このまま黙って何もしないわけにもいかず。キイと少し距離をつめて、落ち着かせようとしたのだけれど、キイの振り回した手が僕の顔に思い切りぶつかった。
「いった……!」
思ったよりも痛い。運悪くキイの手の甲が僕の顔面にあたったので、まるで裏拳を食らったような感じになってしまった。
「えっ、あっ、ごしゅじん? ちがうの、ちがうんだよ。なんで、わたし、ごしゅじんのかお、たたいちゃったの……?」
さぁっとキイの顔色が青くなる。顔面蒼白になったまま、キイは両手で頭を抱えてふらふらと歩き始めた。
「大丈夫だよ。別に僕はケガしてないし、気にしてないから」
キイに声をかけても返事はなかった。ぶつぶつと何かをつぶやきながら、キイはまるで幽霊のようにリビングからキッチンの方へとふらつきながら向かっていく。
嫌な予感がする。キッチンにある食器の水切りカゴに、洗い終わった包丁が置いてあるのが視界に入った。
「ちょっと、キイ、何を――」
僕が反応したのと、キイが包丁へと手を伸ばしたのはほとんど同時だった。とっさに包丁を持ったキイの手首をつかむ。
「やめて! はなして、ごしゅじん!」
包丁を持ったままキイはじたばたと暴れた。女の子のキイに腕力で負けないとはいえ、刃物を振り回されてしまえばとんでもないことになる。恐怖心と闘いながら、いまだパニック状態のキイを必死に抑えた。
「もういやだ! キイはもう生きていちゃいけないの。ごしゅじんをきずつけるくらいなら、もう、いっそのこと、しにたいっ」
「死んだらダメだよ。キイは絶対に死なせない。危ないから包丁をはなして」
僕はなんとかしてキイを落ち着かせる方法を探した。言葉をかけても、今のパニック状態のキイには届かない。包丁を持った手を押さえているから腕は使えない。頭をなでることも、抱きしめてあげることもできない。
正直、僕自身もまったく余裕がなかった。下手をすれば僕もキイも大ケガを負ってもおかしくない状況だ。どうすればいいかわからない状況の中、ふとキイが僕を見上げた。恐怖と、不安でいっぱいになった表情。
言葉も腕も使えない状況で、最も威力のある切り札。僕はとっさにそれを使った。
「……んっ、ごしゅ、じんっ」
重なりあった唇の間から、キイの湿った声が漏れる。今まで触れ合うようなキスはしたことはあったけれど、今しているのはもう少し刺激の強いヤツだ。
キイの体から力が抜けていく。とっさに包丁を奪い取ると、キッチンのシンクの中に放り投げた。
「ちょっとは落ち着いたかな。ケガはしてない?」
とろんとした表情で、キイは僕の方によりかかってきた。ずいぶんと体温が高いような気がする。さっき暴れまわったせいだろう。
「ユキちゃんのところには一緒に行こう。いいかな」
キイは抱き着いたまま、ぐりぐりと僕の胸に顔を押し付けてくる。さっきまで刃物を持って暴れていたのが嘘みたいだ。
「……ユキちゃんに、ひどいこと言っちゃったから。あやまらないと。でもお願い、もうちょっとだけ」
胸元から僕を見上げながら、キイはぽつりとつぶやいた。
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