第42話 雪のように、はらりと抜け落ちて

 キイを落ち着かせた後、僕はユキちゃんのいるマンションの隣の部屋に向かった。ちょっとだけためらっていたけど、キイも一緒についてきている。


「……ユキちゃん、許してくれるかな」

 不安そうな顔でぽつりとつぶやくキイの頭を、そっとなでる。羽毛の混じった髪は温かくて、なで心地がいい。そういえば、ユキちゃんの髪にもよく見れば真っ白い羽毛が混じっていたっけ。


「誰だって『いなくなっちゃえ』なんて言われたらショックだとは思う。ユキちゃんの場合は特に。でも謝って、ごめんなさいって伝えなきゃ。仲直りするにはまずそれが第一条件だから」

「うん……わかったよ、ご主人っ」

 キイは吹っ切れたような、意を決したような表情になった。ならば決意が変わらないうちにユキちゃんのところに行こう。

 ユキちゃんがいる赤羽あかばさんの部屋の前に立ち、インターホンのボタンを押す。チャイムの音はしたけれど、反応がない。念のためもう一度押して、声をかけてみても返事はなかった。


「うぅ……ユキちゃん、怒ってるのかなぁ」

 どうやらキイは、ユキちゃんが怒って無視していると思っているようだ。確かにその可能性もあるけれど、僕は少し嫌な予感がしていた。

 ペットから憐人りんじんになった子は、強いストレスに晒されるとパニックになったり、自傷行為をしたりすることがある。キイもかつて、僕の帰りが遅くなったせいで髪の毛を抜いてしまったことがある。髪に混じっている羽毛まで抜け落ちてしまったあの光景は、今でも僕の胸に焼き付いていた。

 ためしにドアを開けてみる。カギはかかっておらず、あっさりとドアは開いた。


「ユキちゃん、いるかい? 入っても大丈夫かな」

 中をのぞき込んで声をかけてみたが、やっぱり返事はなかった。もしかしたら寝ているのかもしれない。後で時間をおいて出直そうか、なんて思ったのだけれど。


「……ねえ、何の音?」

 どうやらキイにも聞こえたらしい。ぜぇぜぇと喘ぐような、苦しそうに息をしているような音。


「行こう!」

 急いで中に入る。靴を脱ぎ捨て、廊下とキッチンを通り抜ける。広めのワンルームの隅に置かれたベッドの上で、ユキちゃんが激しく咳きこんでいた。


「ユキちゃん、大丈夫!? しっかりしてっ」

 咳きこむユキちゃんの背中をさする。咳はまったく収まりそうになかった。


「く、くすり、とってっ」

 苦しそうに咳に混じったユキちゃんの声。彼女の視線を頼りに探す。テーブル周りがスッキリと片付いていたおかげで、すぐに薬を見つけることが出来た。


「キイ、あの細長いヤツを取ってくれ。シムビコートって書いてある白いヤツ」

スティックのりみたいな、細長いプラスチックの容器。確かこれは喘息ぜんそくの人が使う吸入薬だったはずだ。キイの取ってくれた薬を、吸入できる状態にセットする。


「さぁ、いったん息を吐いて。そうだ、上手だ。それから薬をしっかり吸い込んでっ」

 喘息の吸入薬は、吸い込むときにコツがいる。まだ幼いユキちゃんがきちんと薬を吸入できたのか不安だったけれど、少しずつ咳が落ち着いてきた。

 ベッドの上でユキちゃんの背中を支え、様子を見守る。寝ているよりも上体を起こしている方が楽に呼吸できると、かつて喘息持ちの人から聞いたことがあったからだ。


「ご、ごしゅじん……。その白いのって、もしかしてっ」

 何かに気づいたキイが悲痛な声をあげる。何だろう、と思ってユキちゃんが寝ていたベッドの上を見渡した。

 抜け落ちた真っ白な髪の毛と、それに混じった純白の羽毛。オフホワイトのシーツのせいで気づかなかった。小鳥はストレスや病気のせいで自分の羽を抜いてしまうことがあり、小鳥から憐人になった子も同様の行為をすることがあると知っていたのに。


「ユキちゃん、まだ苦しいかな」

 そっと声をかけながらユキちゃんの頭をなでると、抜けた髪がまとわりつくように指にからむ。いっしょに羽毛も数本抜け落ちた。ストレスが原因だと思うと痛々しくてたまらない。たとえ保護者ではないにしても、近くで見守るべき大人が何かしてあげるべきだったんだ。


「けほっ、だいぶ、楽に、なりました」

 しゃべり始めた瞬間、ユキちゃんはせきこんでしまった。背中をさすりつつ、キイに水を持ってきてもらう。


「ありがとう、ございますっ」

 両手で持ったコップを傾けながら、こくこくと水を飲み干していく。その様子を、キイは沈痛な面持ちで見つめていた。


「……ユキちゃん、その……ごめんね、ひどいこと言っちゃって」

 キイはユキちゃんに頭を下げる。キイがユキちゃんに対して『いなくなっちゃえばいい』と言ってしまったことは、決して軽く流せることじゃない。それでも、キイがしっかりと反省していることはユキちゃんに伝わってほしかった。


「ひどいこと? ああ、わたしに『いなくなっちゃえ』って言ったことですか?」

 ユキちゃんはキイに向かってにっこりと笑って見せた。満面の笑み、と言ってもいいくらいに。こんな状況では、かえってその笑顔はキイを怖がらせてしまっていた。


「ショックでしたよ、まさかキイお姉ちゃんにそんなこと言われるなんて。わたし、あんまりショックで。咳も止まらなくて、心細くて……気が付いたら、髪の毛もこんなに抜けちゃったんです」

 ユキちゃんは落ちていた髪の毛をつかみ取り、ベッドから立ち上がる。真っ白な髪の毛を見せつけるように、キイの方へとひたひたと歩み寄っていった。

 キイはユキちゃんから逃げるように後ずさったけれど、部屋に敷いてあったラグにつまずいて尻もちをついてしまった。


「どうして逃げるんですか、キイお姉ちゃん。わたしが何かするとでも思ってるんですか?」

「ぴぃっ」

 追い詰められたキイが甲高い声を上げる。それでもユキちゃんはなおもキイと距離を詰めていった。真っ白な髪、ふらふらと近づくその姿。


――まるで幽霊みたいだ、と思ってしまった。


「ごめんなさい、ごめんなさい! お願いだから許して、なんでもするからっ」

 ついに限界を迎えたのか、キイはわめくように謝り始めた。今のユキちゃんが漂わせる雰囲気に呑まれてしまえば、誰だって平静ではいられないだろう。


「あはっ……キイお姉ちゃん、今、なんでもするって言いましたか?」

 ぬるりとキイの顔をのぞき込みながら、無邪気にユキちゃんが笑う。キイは怯えたまま、こくこくと頷くことしかできなかった。


「じゃあ、お兄さんをわたしにください。あなたは今までさんざんお兄さんをひとりじめしてきたんだもの。少しくらい、わたしに分けてくれたっていいでしょ?」

「いっ……い、いやぁ」

 涙目になったキイは震えながら首を横に振る。もはやまともに言い返すこともできない。もう限界だ。そう感じた僕は、ふたりの前に割って入った。

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