第40話 かみさま、もうすこしだけ
ほんの一瞬だった。まるで鳥が飛びたつように、さっきまで玄関にいたはずのキイお姉ちゃんが、いつの間にかすぐそばまで来ていた。
「……言って、ユキちゃん。ご主人になにをしようとしてたの」
お兄さんの上にいたはずのわたしは簡単に床に投げ出され、キイお姉ちゃんに押さえつけられていた。わたしを見下ろすキイお姉ちゃんの顔は、影になっているせいか暗く見えて、やけに怖く見えてしまう。
「なんとか言ってよ!」
迫力におされて何も言えずにいると、キイお姉ちゃんは声をはりあげた。びくっ、と体がふるえてしまう。それでもわたしは、負けたくなかった。ここで負けちゃったら、もうわたしには何も残らないから。
「……ずるいよ」
「なに、言ってるの」
キイお姉ちゃんは少しおどろいていた。きっとわたしが何か言い返してくるなんて思っていなかったのかもしれない。
「ずるいんだよ、キイお姉ちゃんは! わたしだってお兄さんといっしょにいたいのに、どうしていつもひとりじめしようとするのっ」
「どうしてって、そんなの決まってるでしょ。ご主人はキイのご主人なんだから。ユキちゃんのご主人じゃないっ、キイのご主人なの!」
「そんなのキイお姉ちゃんのただのワガママだよっ。だってお兄さんは、キイお姉ちゃんのモノじゃないんだからっ」
わたしの言葉を聞いて、かっとキイお姉ちゃんの目が大きくなる。怒ったせいで髪の毛にまじった羽毛が逆立っていた。
キイお姉ちゃんがお兄さんのことを大好きなのはよくわかってる。たぶんわたしは、きっと超えてはいけないラインを超えてしまったんだ。
「うわああぁぁ!」
耳が痛くなるくらいの叫び声。レモンイエローの髪をゆらしながら、キイお姉ちゃんは、まるで火がついたように怒っていた。
「なんでご主人を横取りしようとするの!? ユキちゃんなんていなくなっちゃえばいいんだ!」
その言葉は、わたしの頭の中を真っ白にした。お兄さんのことは大好き。そして、玲さんも、キイお姉ちゃんも好き。
だからわたしは、ここにいてもいいんだって思うことができた。
そんなわたしにとって『いなくなっちゃえばいいんだ』っていう言葉は、『死ね』と言っているのと変わらないんだよ。
「キイっ!!」
怒ったようなお兄さんの声。大きくびくりと体をふるわせて、キイお姉ちゃんはわたしの上から体をどかす。わたしはすぐに立ち上がり、お兄さんの部屋を飛び出した。
玲さんの部屋に戻って、逃げるようにベッドにもぐりこむ。毛布を頭からかぶって、耳をふさいで。それでもわたしの耳元で、いやな声がささやくように聞こえてくるような気がした。わたしを見捨てた、あの飼い主の声が。
――この文鳥は体が弱いんでしょ。病院? お金がかかるからいいわよ、そんなの。
――白くてカワイイから買ったけど、体が弱いなんて知らなかったわ。
――こんな面倒なら、他の文鳥にしとけばよかったかしらねぇ。
文鳥から憐人になったばかりのわたしは、目が悪くてすぐに目のお医者さんに連れて行ってもらった。アルビノ、という言葉をわたしはお医者さんに初めて教えてもらった。アルビノに生まれたわたしは目があまりよくない。
特別なメガネを作ってもらって、それでどうにか日常生活ができるくらいには目が見えるようになったのだけれど。飼い主さんはなんだか面倒くさそうな顔をしていた。その時言われたことを、わたしは今でも覚えている。
――文鳥だったくせになんでこんなにお金がかかるんだろうねぇ、この子は。
わたしはもうすっかり、誰も信じることができなくなってしまっていた。
そんなわたしの氷のような心をとかしてくれた人。
泣きそうなくらいに優しいぬくもりをくれた人。
でもその人はわたしの飼い主さんじゃなくて、キイお姉ちゃんのご主人なんだ。でもそんなことは、どうでもよかった。もうわたしはきっと、お兄さんがいないと生きていけないんだから。
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