第12話 お隣さんは近づきたい

 コンクリートマイク、という機械がある。聴診器に似たマイクをくっつけると壁の向こうの音を拾える機械で、本来であれば壁の中を通る配管の水漏れなどを調べるために使うためのものだ。ただその性質上、悪意を持った使い方をされることがある。

 泊木翔とまりぎしょうが住むマンションの憐人である赤羽玲あかばれいは、まさにコンクリートマイクを“間違った”用途に使っていた。


『お、来たみたいだ。キイもいっしょにお出迎えするか』

『はーい!』

 時刻は19時をまわった頃だ。どうやら泊木さんの夕ご飯はウーバーイーツらしい。インターホンが鳴った直後に、とたとたと玄関へ向かう足音がコンクリートマイク越しに聞こえてくる。


『ご苦労様です』

『こんばんは! “うーばーいーつ”さん!』

 どうやらキイさんはウーバーイーツを、食事を届けてくれる人の名前だと思っているらしい。きっとウーバーイーツの宅配員も、可愛らしい出迎えに戸惑っていることだろう。そんな微笑ましい光景が思い浮かんでつい口元が緩んでしまう。


――羨ましい。

 どろりとした感情が胸の奥から湧き出てくる。私のご主人は数年前に交通事故で死んでしまい、それから私はずっとひとりぼっちだ。

 私のご主人は、とても優しくて穏やかな人だった。そんなご主人とそっくりな雰囲気をまとっていたのが、泊木さんだ。インコから憐人になったばかりのキイさんと市役所に来た時から、私はずっと彼にかつてのご主人の姿をダブらせていた。

 ご主人と泊木さんは赤の他人。もちろん理解はしているけれど、それでも泊木さんのことが気になって仕方なかった。

 彼の近くに引っ越せば、寂しさを紛らわせるかもしれない。そう思い、運よく空室になっていた泊木さんのマンションの隣に引っ越した。でも、寂しさが紛れるなんてことは全然なくて。むしろ心はひどく乾いていく一方だった。たとえ近くにいたとしても、壁一枚隔てた彼には決して触れることができないのだから。


 死んでしまいそうなほど空腹な時に、美味しそうな食べ物が目の前にある。なのに決して手は届かなくて、触れることすらできない。そんな気分だった。

 もう耐えられない。我慢できない。会いたい。声を聞きたい。彼に触れて、抱きしめて温もりを分けてほしい。

 手段なんて、もう選んでいられなかった。


 翌日、私は泊木さんが仕事から帰ってきたタイミングを見計らい、彼の部屋のインターホンを押した。


『赤羽さん? どうしたんですか』

 泊木さんが私の名前を呼んでくれる。その事実だけで天にも昇りそうになるけれど、今はやらなければならないことがある。彼を私の部屋に招き入れるために考えた、なるべく不自然でない方法。


「夜遅い時間にすみません、実は……引っ越してからテレビがどうしても映らないんです。すみませんが力を貸していただけないでしょうか」

『ああ、いいですよ。今行きますから』

 本当はテレビを映るように配線して設定することくらい、自分でできないこともない。スマホで調べれば、やり方くらいは簡単にわかる。でも泊木さんは何の疑いも持たず、ドアを開けて出てきてくれた。後ろにはキイさんもいる。


「あ、お姉さんだ! こんばんは」

 無邪気に手を振ってくれるキイさんを見て少しだけ良心が痛む。これからあの子のご主人を騙して、むりやり彼に近づこうとしているのだから。


「すぐ戻ってくるから。キイは先にご飯食べてていいよ」

「えぇ、ご主人といっしょがいい」

 ちょっとだけ拗ねたような表情を見せたキイさんに、泊木さんは困ったように笑ってみせた。


「わかったよ、ちょっと待ってて」

 彼はぽんぽんとキイさんの頭を撫でる。うん、とキイさんはにんまりしながら頷いた。


――羨ましい。

 私だってあんな風に愛されたい、なんて。また嫌なことを考えてしまう。顔には出していないはずだけれど、少し不安になって私は無理やり笑顔を作った。


「すみません、よろしくお願いします。機械はどうも苦手で」

 いいですよ、と快く引き受けてくれた泊木さんを部屋に招き入れる。昨日のうちに掃除もしたし、芳香剤だって新しく替えておいた。


「お邪魔します。すごいな、キレイに片付いてる。僕はなかなか片付けられなくて……最近はキイに掃除してもらうくらいですから」

「キイさんの面倒を見るのも大変でしょう。何か手伝えることがあったら、遠慮なく言ってくださいね」

 言ってくれれば掃除なんていくらでもやるのに。思わず出そうになった言葉を飲み込んで、代わりに泊木さんを気づかう言葉を選んだ。さすがにいきなり彼のプライベートに踏み込むのはまずいと、ぎりぎりの理性で踏みとどまる。


「ありがとうございます。そう言ってもらえると助かりますよ。赤羽さんも、僕にできることは何でも言ってくださいね」

 本当に“何でも”言っていいならば、私はあなたに伝えたいことがたくさんある。キイさんに向けている愛情、優しさ、すべてを私に向けて欲しい。飼い主を失った私のことを愛して欲しい。


「ええ……いつか、お願いするかもしれません」

 本当に、いつかお願いしてしまうかもしれない。とても言葉にはできないようなことを。


「さて、それじゃあテレビの調子を見てみましょうか」

 私の心の中に巣食っている濁った感情には気づくはずも無く。泊木さんは私に背を向けてテレビをいじりはじめた。


「まずは本体の電源ボタンを長押しして再起動してみましょう。……ダメだな、それならケーブルが悪いのかな」

 泊木さんは四つん這いになりながらテレビの裏をのぞきこんでいる。こちらに背を向けた、とても無防備な状態で。今なら何をしても抵抗はできないだろう。

 そっと足音を忍ばせて、気づかれないように泊木さんに近寄っていく。彼はテレビの背面にあるアンテナケーブルの位置を確認していたから、私の気配にはまったく気づかない。

 あと少し、もう少し。手を伸ばせば届く距離だ。


「ああ、ケーブルがきちんと差さってなかったみたいだ。よし、これで映るはずですよ」

 いきなり泊木さんが振り返る。驚きのあまりに心臓が止まりそうになり、少し遅れて私は冷たい水を浴びせられたように正気に返った。

 私は彼に何をしようとした? 背後から襲いかかって、その後どうなるかなんて、さっきまで全然考えていなかった。下手をすれば警察沙汰になるかもしれないのに、彼に触れたいと言う衝動のせいで超えてはいけない一線を越えようとしていたのだ。


「よかった、ちゃんと映った。それじゃあ僕はこれで失礼します。おやすみなさい」

 泊木さんにお礼を言った時の私は、いつものように笑顔を作れていただろうか。もしまた彼の温もりがどうしても欲しくなるようなことがあったら、私はまた衝動を抑えきれるだろうか。

 それが怖くて仕方なかった。

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