第11話 おやすみなさい

 市役所の会議室を出て外へと向かう途中、廊下で赤羽あかばさんと出くわした。キイが憐人りんじんになったばかりの頃には書類手続きでお世話になったのでお礼を言うと、隣にいたキイも僕のまねをしてぺこりと頭を下げる。赤羽さんはその様子を見て柔らかくほほ笑んだ。


「あの、泊木とまりぎさん、もし何かあったら遠慮なく言ってくださいね」

「ありがとうございます。キイが憐人になった時はどうしたらいいかわからなくて、本当に助かりました。困ったことがあったらまた相談させてもらうかもしれませんので、その時はよろしくお願いします」

 困った時は、また市役所の窓口に行けばいいだろう。当たり前のように僕はそう考えていた。


「ふふ、遠慮する必要はありませんよ。だって、せっかく泊木さんの隣に住んでいるんですから。いつでも寄ってもらってかまいません」

 僕を見つめる赤羽さんの言葉は予想外のものだった。たしか赤羽さんが僕の隣に越してきたのは、キイが憐人になって市役所で手続きをしてからだ。その時対応してくれたのは赤羽さんだったから、手続き書類に書かれた僕の住所はもちろん彼女も目にしているはず。


――まさか。僕に近づくために引っ越してきたんじゃないよな?

 そんな疑いが頭をかすめた。まさか、あり得ない。マンションの隣に引っ越してきたのはただの偶然に違いない。


「ねぇご主人、どうしたの?」

「な、何でもないよ。それじゃあ赤羽さん、今日はこれで失礼します」

 キイに袖を引っ張られ、僕は我に返った。最初は優しそうに見えた赤羽さんの微笑みが、今はどこかねっとりとしたものに思えてしまう。赤羽さんから向けられる視線を背中に感じながら、僕は市役所を後にした。

 それから昼ご飯を食べて、いろいろと追加で必要そうなものを買いそろえるうちにすっかり夕方になってしまっていた。晩御飯は家で食べよう。今日は疲れたからウーバーイーツですませるけど、そのうちキイといっしょに料理をするのもいいかもしれない。

 晩ご飯を食べ終わり、テレビを見ながらのんびりと過ごす。キイは眠たくなってきたのか、僕の太ももに頭をのせて眠たそうに目を細めていた。インコだった頃によく止まり木の上でうとうとしていたのを思い出し、つい口元がゆるんでしまう。そろそろ歯を磨いて寝かせようか、なんて考えていたときにふと大事な事に気が付いた。


――キイの布団を用意していないじゃないか。

 どうして気づかなかったのか。この前後輩の烏丸さんと一緒に買い物をして、服やら何やらの生活用品をひと通りそろえてはいたのだけれど。“寝床”を用意するのをすっかり忘れてしまっていた。

 インコだった頃と違い、今のキイには人間と同じ暖かい寝床が必要なのだ。体も心もまだ子供と変わらないとはいえ、さすがに同じベッドで寝るのはまずい気がする。そういえば、前に買った寝袋があったはずだ。とりあえずキイはベッドに寝かせて、僕は寝袋で寝ればいい。


「ほら、寝る前に歯を磨かないとだめだよ」

「うん……わかったよ、ごしゅじん」

 わかったとは言いつつキイの反応は鈍い。仕方ないので洗面台まで連れていき、今にも寝てしまいそうな彼女に付き添いながら歯を磨かせた。目はとろんと眠そうだけれど、なんとか磨けたようなのでパジャマに着替えさせる。


「さあ、これに着替えて」

「ごしゅじん、きがえさせてぇ」

 眠たげな表情を浮かべたまま、キイは一向に着替えようとしない。あげくの果てにはこっくこっくりと本当に寝てしまいそうになっていた。自分で着替えてくれないのであれば、僕が着替えさせるしかない。まだ子供とはいえ女の子の服を脱がせるのは抵抗があるけれど、覚悟を決めた。

 意識しすぎるからいけないんだ。服を着替えさせるくらいはどうということはない。だってキイがインコだったころは、そもそも服すら着ていなかったんだから。


「んんっ、ごしゅじん、くすぐったいよ」

 キャミソールに似たインナーを脱がせると、キイがくすぐったそうに声をあげる。その声がやけに甘ったるく聞こえてしまい、僕はもう心を無にするしかなかった。


「おやすみ。キイはベッドを使っていいからね」

 ようやく何とか着替えを終えて、僕はキイを先に寝かせることにした。のそのそと布団にもぐり込んだキイだったが、すぐには眠らずこちらをじっと見つめている。


「どうしたの? 僕はもう少ししたら寝るから、キイは先に寝てていいよ」

 布団から顔だけ出しているキイに声をかける。キイが眠ったら寝袋を出そうと思っていたので、できれば早めに寝付いてほしかった。


「……ごしゅじんといっしょじゃなきゃヤダ。ごしゅじんといっしょじゃなきゃ寝ないもん」

 ぷっくりとほっぺたを膨らませ、キイは抗議の意思を僕に示してきた。


「さすがにいっしょに寝るのはまずいよ。明日布団を買ってくるから、寝るのは別々にしよう」

 そっと人差し指でキイのほっぺをなでてやる。一緒に寝たいなんていうのは、子供みたいな可愛らしいわがままだと思っていた。だってまだキイは体も心もまだ幼いと思っていたから。


「なんで!? なんでご主人といっしょじゃダメなの!? いっぱい寂しいの我慢したんだよ。鳥だったときは、ずっと寝るときは鳥かごでひとりぼっちだった。ひとりで寝るのはもうイヤだよ!」

 わぁっと勢いよく布団から飛び出してきたキイを、僕はなんとか受け止める。勢い余って床に倒れてしまい、まるでキイに押し倒されたような状態になってしまった。こちらを見下ろすキイの表情は、先ほどの眠たげなものとは違う。据(す)わった目つきで僕を押さえつけたまま動こうとしない。


「キイね、鳥だった時のことみんな覚えてるよ。ご主人がほっぺをなでてくれたこと、水浴びさせてくれたこと、いっぱい優しくしてくれたこと。ご主人がキイにしてくれたこと、みんなおぼえてる」

 真剣な表情でキイに迫られ、僕はただ彼女の言葉を聞くしかなかった。どうやらキイの想いは無視できる軽さじゃないようだ。


「あ、あとね……パソコンでえっちな動画を見てたことも、おぼえてるんだからねっ」

 まさかインコだった頃のキイにそこまで見られていたとは。ここまで弱みを握られたらもう降参するしかない。結局、僕は大人しく彼女のいうとおりに一緒に寝るしかなかった。


「……もう離さないから」

 同じベッドの上、キイは僕の胸に顔をうずめて抱き着いてきた。彼女の体はじんわりと熱い。そういえばセキセイインコの体温は40度くらいあると聞いたことがあるから、たぶんキイの体温も僕より高いのだろう。

 そんな彼女に抱き着かれたままでは、そう簡単に眠れるはずもなく。僕はひどく寝苦しい夜を過ごすことになった。

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