第8話 烏丸陽奈という後輩

 烏丸陽奈からすまひなにとって、泊木とまりぎは頼れる先輩であり心の支えである。いや、心の支えなんて表現ではすまないかもしれない。むしろ陽奈にとって、泊木は親鳥と言う存在と言ってもよかった。

 卵から孵化したばかりの雛が、初めて目にしたものを親だと思い込むのと同じように。ただ苦しかった前の職場から逃げ出した陽奈に初めて優しくしてくれた泊木は、彼女にとって親鳥と同じくらい重要な存在になっていた。

 前の職場で上司から怒られた時のことを思い出すと、陽奈は今でも胃がきりきりと痛みそうになってしまう。


『いつまでそんな仕事に時間かけてるんだよ、さっさと終わらせろ!』

『何度同じこと言わせるんだ!? 同じことを何度も聞くな!』

 前の職場で何度も浴びせられた言葉だ。陽奈はどちらかと言えばおっとりとした性格で、上司から与えられた指示を理解するには少し時間がかかってしまう。当時の上司はせっかちな性格だったため、陽奈はいつも怒鳴られてばかりだった。

 夜遅くまで残業する日々が続き、やがてはひどいストレスで食事もほとんど食べられなくなってしまう。そんな辛い日々が続いたある夜。遅くまで仕事をして疲れ切ったせいで食欲もなかった。それでも何か食べなきゃと、菓子パンを無理やり口に入れたのだけれど。弱り切った体は食べ物を受け入れることができず、吐いてしまった。


――なんで、こんなに、辛い思いをしないといけないの?

 涙が勝手にあふれてくる。限界だ。もう、耐えられない。いつの間にか声を上げて泣き出してしまっていた。

 そうして心身ともにボロボロになって前の職場を退職して、数か月は何もせずだらだらと過ごして。けれど少しずつ減っていく貯金の残高を目にすると、どうしても仕事をしないわけにはいかなくなってきた。何とか勇気を振り絞って応募したのが、泊木が勤めていた会社だったのだ。

 働き始めてから数日後。私に最大のピンチが訪れていた。たぶん一度説明を受けたことなのに、うっかりメモを取り忘れていたせいでどうしていいかわからなくなってしまった。私の教育担当だった泊木さんは隣のデスクにいたけれど、怖くてどうしても質問をすることができなかった。

 前の職場で怒鳴られた記憶がフラッシュバックする。冷や汗がインナーにしみ込んで嫌な感じがするのに、私は身動きを取ることができない。だってまだこの頃は、泊木さんのことをどんな人か知らなかったから。


「烏丸さん、何かわからないことでもあるかな」

 固まってフリーズしている私に気づいて、泊木さんは声をかけてきた。ついびくんと体が反応してしまう。怒られる。そう思うと恐ろしくて仕方なかった。でもこのまま何も言わないわけにもいかず、私は残りかすみたいな勇気を振り絞った。


「あ、あの……ま、前にも聞いたかもしれないことで、その……」

 私は怖くて泊木さんの顔を見ることができない。この後どんな風に怒られるかと思うと、心臓がきゅっと縮んでしまうような気分になる。泊木さんは少し考えこんでいるのか、数秒間の沈黙があった。苦しい。まるで死刑宣告を待っているような数秒間だ。


「遠慮しなくていい、一度聞いたことでも遠慮なく質問してくれていいから。その時はきちんと説明するよ。一度の説明で伝わらなかったのだとしたら、それは説明する側の責任だから」

「ほぇ?」

 思わず間抜けな声を出してしまう。だって、泊木さんから返ってきたのは怒鳴り声じゃなく、とても温かくて優しい言葉だったから。


「一丁前になったな、泊木」

 少し離れたデスクにいる部長が、泊木さんに視線を向けてほんの少しだけ口元を緩めた。怖そうな人だけれど、部下である泊木さんの成長をきっと嬉しく思っているのだろう。


――ああ、そうか。ここには私を傷つけようとする人なんかいないんだ。

 自然に涙があふれる。嬉しくて泣いてしまうなんて、いつ以来だろう。


「え、ちょっと、烏丸さん!? どうしたの急に」

「泊木、お前……まさか部下を泣かせたのか……?」

 般若のような表情で怒りをにじませる部長さんと、いきなり泣き出してしまった私に挟まれ、泊木さんは慌てふためいていた。

 私は慌てて前の職場でのことを話した。上司とうまくいかなくて、心身ともに追い詰められ退職したこと。今の職場でまさかこんな優しい言葉をかけられるなんて、夢にも思わなかったこと。


「きっと……前の職場ではつらい思いをしたんだね。でも心配はいらない。僕は少なくとも、頭ごなしに怒ったりするようなタイプじゃないから。注意するときはしっかり注意するけどね」

 私が前の職場を辞めるに至った経緯を、泊木さんはしっかりと聞いてくれた。本当にいい先輩に巡り合えたとしか言いようがない。


「もしまだ気分が優れないようなら、今日はこのまま早退してもいいよ」

「だ、大丈夫です。もう少しして落ち着いたら、仕事に戻ります」

 さすがにそこまで迷惑をかけてしまうのは申し訳なくて、少ししてから私は仕事に戻った。今は少しでも早く仕事を覚えたかった。

 じゃないと泊木さんの役に立てない。泊木さんに尽くすことができない。泊木さんの優しさに報いなければ、私には生きる意味がないから。


――だから、私は泊木さんについていく。

 どこへでも、どこまでも。

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