第3話 離れたくないから、今は離れるしかない

 カーテンを開けると、まぶしい朝日が寝不足の目にしみた。これからキイを連れて市役所に行かなければならない。キイは毛布にくるまったまま、昨晩と同じ場所で丸まっている。毛布をめくろうと掴んだ手の、昨日キイに噛みつかれたところがずきりと痛む。

 ふと思い出したのは昨夜に上司とした会話だ。


『憐人の扱いには気を付けろよ、その親戚は腕を噛みつかれて十数針も縫う大ケガをしてる』

『いっそ離れ離れになるなら、噛み殺してしまおう。そして自分も後を追おう。その子はそう考えたらしい』

 上司の言葉が思い出されて、キイの毛布をめくることを躊躇してしまう。あんな恐ろしい内容を聞かされては当然だ。もし、また思い切り噛みつかれたら。インコにくちばしでつつかれるのと、憐人となって人間の体を得たキイに噛みつかれるのとでは、受けるダメージがまるで違う。


「……キイ、朝だよ」

 怖い気持ちは完全には消せないけれど、彼女を起こしてやることにした。怖がっているだけでは何も変わらないから。そっと毛布をめくると、目の下にどんよりとクマを浮かべたキイが眠たげに顔を上げた。きっと彼女もよく眠れなかったのだろう。ぼんやりとした目で僕の手に貼ってある大きな絆創膏を見つめていた。


「ごしゅじん、けがしたところ……いたい?」

 キイの表情があまりに不安そうで、見ているこっちが辛くなってしまう。うっすらと瞳に涙をためて、今にも泣きそうな彼女を見ていられなくて。インコだった時と同じように、ほっぺたやあごの下のあたりをそっと撫でてやった。


「んっ……」

 キイはうっとりと気持ち良さそうに目を細めた。そんな彼女の様子を見て、こちらも思わず口元がゆるんでしまう。いつの間にか彼女に対する恐怖感なんてどこかに飛んで行ってしまっていた。


「今日は僕と一緒に出かけよう。行かなきゃいけないところがあるんだ」

「ごしゅじん……キイをどこにつれていくの?」

 不安げな瞳で見つめられ、とっさに言葉を返すことができなかった。部長の話を聞いた後にスマホでも調べたが、やはり憐人となった子は役所に届出をしないといけない。そして人間の体になったばかりの彼女たちは、少しの期間役所に預かってもらって教育を受けることで、ようやく社会生活に溶け込めるための第一歩を踏み出すのだ。


「すぐにかえれるんだよね? ごしゅじんといっしょにいられるんだよね?」

「すぐには無理かもしれない。キイはこれから、僕と生きていくためにいろいろと覚えないといけないことがあるんだ」

 戸籍や保険証だって、役所で手続きをしないともらえない。それがないと病院にかかることも仕事をすることもできない。キイがこれから社会生活をしていくためには、どうしても必要なことだった。

 ただ、その必要性を憐人になったばかりの彼女に理解してもらうのはとうてい無理に思えた。今の彼女はまるで物心がついたばかりの幼い子供と変わりないからだ。


「やだ! ごしゅじんといっしょじゃないなら、どこにもいかない!」

 ぽかぽかと僕の胸のあたりを叩きながら、キイは駄々をこねて暴れ始めた。手加減は一切ないからけっこう痛い。


「わがままを言わないで。離れるのは少しの間だから。それを我慢しないと、キイは僕と生きていけないんだよ」

「うそだ! ごしゅじんはキイをすてようとしてるんでしょ。キイをどこかにつれていったら、ごしゅじんはそのままどこかにいっちゃうんだ!」

 なるべく穏やかな声でなだめようとしたけれど、キイの癇癪かんしゃくはますますひどくなるばかりだ。ちらりと壁の時計を見る。もう少しで市役所が始まる時間だ。その後で職場にも顔を出す事を考えれば、なるべく早く出かけたい。


「キイを置いていなくなったりしない、約束するよ。だから行こう。僕だって今日は仕事が――」

 胸のあたりに強い衝撃。それ以上は言葉を発せなかった。いきなりキイに突き飛ばされ、抵抗もできないまま床に倒されてしまう。


「ごしゅじんはキイをだまそうとしてるんだ。キイをすてようとしてるんだ」

 床に押し倒され、両肩を押さえつけられる。小さなキイの体のどこにこんな強い力があるのかわからないが、まったく身動きができなかった。


「でもね、キイしってるよ。ごしゅじんがキイからはなれられなくなるようには、どうしたらいいか」

 ぱくり、とキイが口を大きく開ける。


――やばい。


 そう思った瞬間、キイは僕の首筋に噛みついた。首の中を走る頸動脈を噛み切られれば、まず間違いなく助からないだろう。激痛に襲われ、血液のほとんどを失い、その後にじわじわと「死」が迫ってくるに違いない。

 死ぬのは怖いし、それにともなう苦痛なんて耐えられそうにない。でも、頭の中をふとよぎったのは「キイを幸せにしてやれないまま死ぬのはどうしても嫌だ」という願いだった。死ぬかもしれないというこの状況でもなお、どうしてもこの子のことが心配でしょうがなくて。気が付けば、キイの小さな体をぎゅっと強く抱きしめていた。


「ごしゅ、じん……?」

 驚いたのか、キイは僕の首元から口を離す。間をおいて激痛に襲われるのを覚悟したけれど、痛みはなかった。噛みつくことは躊躇してくれたらしい。


「……ごしゅじん、ごめんなさい、わたし、また、ひどいことしようとして」

 後悔に押しつぶされそうな表情を浮かべながら、キイは僕の腕の中でじたばたと暴れ始めた。まだ幼い感情でも、自分のしてしまったことの重大さに気づいたのだろう。


「いいんだ、大丈夫だよ。何も心配はいらない」

 もがくキイを抱きしめる腕に力をこめる。彼女だって、悪意を持って僕を傷つけようとしたわけじゃない。ただ寂しくて、怖くてたまらなかっただけ。

 キイを守ってやれるのは自分しかいないんだ。自分は会社に行けば同僚に会えるし、その気になればスマホで友人に連絡をとることだってできる。


「ごめんな。辛かったよな。あともう少しだけガマンしてくれたら、もう寂しい思いはさせないから」

 でも、キイは違う。ずっと鳥かごでひとりきりで過ごしてきた彼女にとって、頼れる存在は飼い主である自分だけしかいない。もし自分がキイを見捨ててしまったなら、それが彼女の心にどれだけの傷を負わせてしまうのか、想像すらできなかった。


「ごしゅじんとはなればなれになるのはイヤ。キイにはごしゅじんしかいないの……!」

 涙まじりに訴えてくるキイの背中をぽんぽんと優しくなでてやる。


「大丈夫、これからはずっといっしょだ」

「ぜったい、ぜったいむかえにきてね?」


「ああ、約束するよ」

「ぜったいだよ。もし、ほんとうにおいていかれたら――」

 ほんの少しの間があった。どうしたのだろう、と思った瞬間。


「キイ、死ぬから」

 今での舌足らずの口調とは違う、重いトーンの声色だった。思わずキイの背中をなでていた手が止まってしまう。驚いてキイの顔を見ると、涙まじりにうるんだ漆黒の瞳が射抜くようにこちらを見つめていて。

 僕は少しの間、身動きが取れなかった。

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