第2話 汝 “憐人” を愛せよ
キイに噛みつかれた傷口からにじむ血がようやく止まった。彼女は相変わらず部屋のすみっこで、毛布にくるまったままだ。大丈夫かい、と声かけても返事はない。そっと触れれば「さわらないで!」とでも言うかのように体をぶるぶると揺らすものだから、こちらとしてはもう見守ることしかできなかった。
ふぅ、とため息をついてスマホを手に取った。キイが毛布にくるまっている今なら、スマホをいじっても大丈夫だろう。キイが“
まずは生活に最低限必要な事。戸籍はどうなる? 人間のような義務教育は必要なんだろうか。病院にかかる時は? キイの保険証なんて、そもそも作れるのかもわからない。そうだ、確か市役所には隣人を扱う窓口があったはずだ。藁をもつかむ思いでスマホで検索したのは、自分が住んでいる街の市役所のホームページ。
『憐人をお迎えした方へ』
これだ、と思い急いでそのページを開く。どうやら市役所には“憐人係”という部署が存在するようだ。憐人係では、ペットから憐人になった子たちの戸籍作成、社会生活に順応するための教育、その他生活に必要なサポートを提供してくれるらしい。
明日は朝一番で市役所へ行こう。少なくとも午前中は仕事を休むことになるだろうけど、仕方ない。そもそも自分は一人暮らしだし、他に頼れる人もいない。もう遅い時間だしだいぶ迷ったが、職場の上司には連絡を入れておくことにした。
スマホで電話アプリを開き、覚悟を決めてから上司の名前をタップする。3コールほどで上司は電話に出てくれた。
『おお、どうしたこんな時間に』
上司の声は、驚きにほんの少し心配の色を混ぜたような声のトーンだった。無理もない、早い人なら寝ていてもおかしくない時間帯なのだから。
「部長、夜分に申し訳ありません。急な話ですが、実はうちで飼っているインコなんですが……」
『お迎えしたのか、憐人を』
どうやら部長は何が起こったか察してくれたようだ。部長は僕がインコを飼っていることを知っている。会社ではペットを飼っていることを申し出しないといけないからだ。確かにペットが憐人になった時のことを考えれば、必要な制度かもしれない。
「はい、今日帰宅したら人の姿になっていまして。調べたら市役所に憐人を扱う部署があるらしいので、申し訳ありませんが明日の午前中はお休みを頂きたいのですが」
『かまわんぞ。どうせ憐人になった子はそのまま役所に預けることになるから、その後でいいから来れそうであれば報告も兼ねて出社してこい』
「役所に預けるんですか?」
『そうだ。昨日までペットだった子がいきなり人間の体になったんだ。教えないといけないことがたくさんある。それをサポートするのが役所の憐人係だ。まずはみっちり泊まり込みで教育を受けることになるそうだ』
なるほど、そんな制度があるのか。たしかに自分のように一人暮らしの場合は、公的機関のサポートを受けられるのはありがたい。
「でも部長、ずいぶん憐人について詳しいんですね」
『うちの親戚がな、飼ってた犬が憐人になったんだ。……なあ、憐人の扱いには気を付けろよ、その親戚は腕を噛みつかれて十数針も縫う大ケガをしてる』
「どうしてそんなことになったんですか? その人、犬に何かしたんでしょうか」
『いいや、違う。むしろその逆だ。親戚は犬をとても可愛がっていた。そして犬の方は――あまりにも飼い主のことを、愛しすぎていた』
「ど、どういう意味ですか」
『その親戚は、憐人を自宅に迎え入れるのは無理だと判断して施設に預けようとしたらしい。だいぶ悩んだそうだが、親戚は重い持病があって毎月高額な医療費がかかっていたから、体力的にも経済的にも憐人になった子の面倒を見るのは厳しかったそうだ。やむなく憐人になった子を泣く泣く手放し、見送ろうとしたんだが――』
スマホ越しに、部長がごくりとつばを飲み込む音が聞こえる。
『いっそ離れ離れになるなら、噛み殺してしまおう。そして自分も後を追おう。その子はそう考えたらしい。それが親戚が噛みつかれて大ケガを負った理由だ』
「ウソでしょう、そんな……」
『残念だが嘘じゃない。もちろん、憐人になった子がみんな危険だとは限らないだろうが。ただそういうケースもある、というだけだ。俺からアドバイスできるのはこれくらいだな』
真っ白になった頭でなんとか部長にお礼を言い、通話を終えた。愛らしい見た目の少女と同居することになったことは、実を言うと内心わくわくした気持ちはあったのだけれど。部長との電話を終えた後では、舞い上がっていた気持ちはすっかり影をひそめてしまっていた。
無意識のうちに、毛布にくるまったキイから目が離せないでいた。キイの呼吸にあわせて毛布はほんの少し上下していて、その中に「生き物」が潜んでいるのを嫌でも実感してしまう。ワンルームのマンションでは、もし何かあっても逃げることなんてできない。
結局その夜は、ほとんど寝ることができなかった。
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