第3話 帰還

 暗い路地裏で二人は対峙していた。

 蟻人間は街灯の近くまで近づいてきたが途中で立ち止まり、ある程度の距離を保ったまま、その黒い瞳で冴子をじっと見つめている。

 冴子は逃げることもせず、蟻人間を見つめていた。その姿はわずかに震えている。

「やっぱり居たんだ。嘘じゃなかったんだ。私の妄言なんかじゃないんだ」

 冴子は引きつった歪んだ笑みを浮かべた。恐怖と喜びで感情が可笑しくなっている自分を感じながら、冴子は拳を握りしめる。


 殺そう。

 そう考えた。それが正解なんだ。


 誰かが殺される前に殺さなければならない。それに、殺されるくらいなら殺してやる。それをやれるのは、私だけなんだ。持っていた鞄を放り投げる。


『違うぞ冴子、お前は一人じゃない。このあたし、アカネ様がお前と共にいるんだからな!』


 懐しい声に冴子はハッとした。入院してからずっと聴こえることのなかったその声に、冴子は思わず涙が出そうになる。また一つ、彼女の日常が帰ってきたのだ。


『悪いな、冴子。ちょっとこっちに帰ってくるのに手間取ってたんだよ。エメラルドもサファイヤもちょっと頑固すぎるんだよ。あたしがどこにいようがあたしの勝手だろうにさ』

 いつもと変わらないアカネの様子に、冴子は安堵した。声しか聞こえてこないが、その声は確かに一緒に戦ってきた彼女の声だった。

 いつの間にか身体の震えは収まっていた。冴子は緊張で溜め込んでいた肺の空気を一気に吐き出すと、握っていた拳を開き、右腕を身体の横に突き出した。


「アカネ、久しぶりで悪いけどいつものお願い。聞きたいことはいっぱいあるけど、今はこいつを倒すのが先だから」


『おう、任された。まぁ、そもそもあたしはその為に帰ってきた訳だしな、積もる話はお家に帰ってからたっぷりやるとするか』


 突き出されていた冴子の右手あたりの空間が歪み、赤色に染まった魔法円のようなものがそこから浮かび上がってくる。魔法円の全体が露わになるにつれ、歪みはより一層強くなり、世界を歪ませていく。

 完全に浮かび上がった魔法円は略式的に書かれていて、所々の記載が抜けていたり、乱雑に書かれている。冴子はそんなことは気にせず魔法円に手を突っ込み、刀身が赤く染まった日本刀を抜き出した。

 その衝撃によって歪みは魔法円を飲み込むほどまで大きくなり、飲み込んだ魔法円と共に跡形もなく消えていった。


 冴子は自分の愛刀とも呼べる刀を強く握りしめると、久々となるずっしりとしたその重みを感じながら、蟻人間に斬りかかった。

 蟻人間は頭以外は生身の人間と同じ様に出来ているから、そこを狙う。本当はのだが、実際に戦わなければならない冴子にとってそれはどうでもいいことで、頭が硬くて刃が通らないからそこ以外を狙うという単純明快なロジックによるものである。


 狭い路地で上手く刀が振れないと感じた冴子はその刃を腹に突き立てようと考えていた。今は刀を掲げて斬りかかろうしているがそれは蟻人間を騙すためのフェイクだった。

 蟻人間はそのフェイクに見事に引っかかり、上からくるであろう刀ばかりに注視してしまい、その腹にもろに刃を突き立てられてしまった。

 蟻人間は突き刺されたことなど気にも留めず、その触角で冴子を撫で始めた。大顎をギチギチと鳴らしながら、その複眼で冴子を見つめる。冴子は臆することなく見つめ返す。


「さっさと死になさいよ、この頭でっかち」

 冴子は蟻人間の顎や腕を避けつつ、しゃがみ込みながら刀をさらに突き刺していく。赤い刀身に混じって赤い血がつうっと伝ってくる。血で刀が滑ると不味いと思った冴子は一度思いっきり体当たりをして刀身を抜いた。蟻人間が尻餅をつく。

 体当たりのおかげで倒れた蟻人間を見た冴子はそれをチャンスと捉えて、路地の塀にさっと飛び上がると、今まであたりを照らしてくれていた街灯の電柱を叩き切った。電柱で蟻人間を押し潰してしまおうという考えだった。

 冴子に斜めに叩き切られた電柱は蟻人間の方へと倒れていく。冴子は我ながら上手く切れたなと思った。そんな冴子の気持ちに水を差す様にアカネがポツリとつぶやく。


『あ、冴子。それはちょっと不味い』

「え? どうしてよ」

『ここ、現実世界なんだよ。いつもみたいに現実とあっちの世界の境界をいじってない』

「じゃあ……」


 冴子の叩き切った電柱が轟音と共に倒れた。その電柱に蟻人間を巻き込まれたかは分からなかったが、不幸にも倒れた先に建っていた家には明らかに電柱が突き刺さっている。

 冴子の顔色がだんだんと青ざめていく。


『とりあえず、逃げようか』


 冴子は持っていた刀を霧散させると、コンクリートの破片で少し白っぽくなった鞄を抱き抱えて一目散に駆け出していく。


 後に残ったのは凄まじい惨状だけだった。


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