第9話 月夜

 ブリジッドは立つこともできた。最初はとても歩けないと思っていたけれど、歩いてみると普通に歩けた。

 少し体がけだるいけれど、それは、あの仕事をしていればいつものことだ。

 泉の岩場を下り、林を下り、小川沿いの道を水車小屋のほうに行く。

 メアリーに仕事のつらさを訴えるつもりはなかったけれど、メアリーが

「女中部屋、最近、どう?」

ときいてきたので、正直に答えることにした。

 「もう最低。煙草の煙とかがいつももわっとしてるし、何かお酒か何かのいやなにおいがこもってるし、それにうるさくて眠れやしない。たぶんアヘンとかやってる人もいるんじゃないのかな……」

 自分が女神さまであることはもうどうでもよくなっている。

 「そうか……」

 メアリーはつぶやくように言った。

 「よくする気ないんだな、サラさん」

 ブリジッドが女神さまの力で晴れさせたらしい空はまた曇り始め、月はときどきかげったり、また照ったりを繰り返している。

 サラさんというのは女中頭の名まえだ。よく太った赤ら顔のおばさんで、めったに怒らず、愛想はいい人だが……。

 「居心地悪ければわたしたちのところに来ればいいんだよ」

 メアリーはさらっと言った。

 「部屋も余ってるんだしさ」

 「え? でも……」

 皿洗い女中は、特別に部屋を与えてもらえるほどの格の高い女中ではない。

 いや。「女中のなかでは格が最低」と言うのが正しいだろう。

 「いいって。住んでるのはお嬢様とアンとわたしだけなんだから」

 言いかけて、メアリーは照れたように笑う。

 「ああ、そういえばあんたもアンだったよね」

 「あ、いや」

 ブリジッドは眉をひそめた。

 「わたし、アンって名のったらだめで、ブリジッドって名のりなさいって……」

 「はい?」

 「だってさ……」

 わけのわからなさそうな顔をしているメアリーを見上げて、アンが言う。

 アン・ブリジッドが、きつく言ってやる。

 「あんたが、自分の妹の名まえとおんなじだから、わたしにアンって名のるな、って言ったんでしょ?」

 「言ってないよ」

 メアリーはそっけなく返事してから、笑った。

 「言うわけないじゃない。だいたいお屋敷のなかに何人アンって名まえの子や女の人がいると思ってるの? ここにはいらっしゃらないけど、奥様のお母上だってアン様だしさ。それに、あんたが最初にあいさつに来たとき、ああ、妹とおんなじ名まえだから覚えやすいな、って思ったんだもん」

 そうでなければ、お嬢様のお相手役の女中が、皿洗い女中の名まえなんかいちいち覚えているはずがない。

 それに。

 たしかに、メアリーは、さっきからブリジッドのことを「アン」と呼んでいた。

 「じゃあ?」

 「きっと、だれかがからかってそんなことを言ったのにみんな乗っちゃったんでしょ? だからさぁ」

 メアリーはもういちど言う。

 「女中部屋なんかにいないで、わたしたちのところに来ればいいじゃない」

 「ああ、でも」

 わだかまりは取れた。

 いや、そんなわだかまりは、とっくになくなっているのではなかったかな。

 でも、自分が晴れさせた空から月が雲に隠れてしまう前に、言わなければいけない。

 「やっぱり、やめとく」

 「なんで?」

 「自分で、このお屋敷の皿洗い女中になることを選んだんだから」

 「あのさ」

 メアリーが少し前を歩きながら、きく。

 少しためらっている。

 「なんで、皿洗い女中になろうなんて?」

 「料理するが好きだったから」

 ブリジッドは笑って、メアリーの顔を見上げた。

 「最初はサーカスのスターになりたかった。サーカスに入ったらすぐにでもスターになれる自信はあった」

 メアリーはだまって笑い、ブリジッドを見返した。

 ブリジッドがメアリーをあそこまで痛めつけることができたのは、女神さまの力があったからだろうけれど、同時に、ブリジッドのほうが身が軽かったからだ。

 メアリーはそれに気づいたに違いない。ブリジッドは続ける。

 「でも、家じゅうみんな大反対だった。それでさ、じゃあ、ベリーズベリーのお屋敷に奉公するんだったらいいでしょ、って言って。それでここの仕事が決まったら、家中お祭り騒ぎ」

 はあっ、と大げさにため息をついてみせる。

 「まさか、あんな地獄みたいなとこに投げこまれるなんて思っても見なかったよ」

 言って、笑う。笑っていいと思う。

 メアリーは、その泉の魔女の跡取りとかいうことは別にしても、この土地に代々住んできた家柄なのだ。それとよそから雇われてきた女中とでは、最初から格が違ってあたりまえだった。

 「じゃあさ」

 そのメアリーが言う。

 「料理、作ってみればいいじゃない?」

 「はいっ?」

 「仕事場、台所でしょ? それで、料理、得意なんでしょ?」

 「あ、いやいやいや」

 ブリジッドは何度も首を振った。

 「いやいや、そんなことしたら、いったい何言われるか……」

 「そんなことしなくても、悪口言われていじめられるんでしょ?」

 メアリーが返す。たしかにそうだ。

 「だったらやってみればいいじゃない? だいたい、皿洗い係って、次は料理係に出世するのが順番なんだからさ」

 「はあ……」

 「それにあんたさ」

 メアリーは歩きながらブリジッドの顔を見ている。

 「勇気、あるじゃない? いざというときに次々に強気に出られる勇敢さもさ」

 そして、いじわるに笑う。

 月がかげってほしいと思っても、月は翳らない。雲が空を覆いかけているのに、月のところだけは空が晴れたままだ。

 もしかすると、メアリーが泉の魔女の魔法で空を晴らせ続けているのかも知れない。

 アン・ブリジッドは、そこで、肩をすくめて気弱に笑って見せるしかなかった。

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