第8話 目覚め

 「アン!」

 強い、なじるような声がする。

 そんな声を、昔よくきいたな、と思う。

 「アン!」

 ほら。

 答えないでいると、すぐにもっと怒ったように言われるのだ。

 いつもいつも……。

 もっと優しくしてくれていいんじゃない?

 「もう、いいかげんに目を覚ましなさいって!」

 邪慳な声が耳を打ち、アン・ブリジッドは無理やり目を開けた。

 アン・ブリジッド・ブレンダン……。

 頭の下はひんやりして冷たいやわらかいものだ。

 上にはきらきらときらめくものがゆらゆらと揺れている。どうやら水の入った瓶の底らしい。

 その上から、白い顔が自分を見下ろし、のぞきこんでいた。

 メアリー……。

 「あっ!」

 起き上がろうとする。

 「ああっ……」

 でも、体じゅうがうつろになったようで、力が入らず、そのままもとの姿勢に戻ってしまった。

 頭がぼんっとはずむ。メアリーが軽く顔をしかめた。

 ブリジッドの頭がはずんだのは、か細いはずのメアリーのふとももの上でだった。

 お嬢様のお相手役の女中、メアリー・ファークラッドに膝枕をしてもらっている……。

 「んもぅ……アン!」

 メアリーはあきれたように言った。

 「あんたもっとしっかりした子でしょ! それにさっきまでの元気はどうしたの?」

 その美しくて華奢きゃしゃな手で、メアリーはブリジッドの両肩をぎゅっと握った。

 そのまま無理やり体を起こし、押しつけるようにしてどこかに座らせる。

 「ああっ……あっ……あっ……あっ……」

 目のまえが暗くなる。激しく息をし、何度もあえぎ声を上げたけれど、なんとか倒れずにはすんだようだ。

 メアリーが、顔を伏せ気味にして、横目できつくそのブリジッドを見ている。

 「あ、ああ、わたし……」

 どこに座らされたのかもわからないままだけれど、なんとか声は出た。

 「何してたんだろう?」

 「わたしを土のかたまりにして、鞭打ったりくわで耕したり雑草を生やしたり雪の下で凍りつかせたり、それを毎年繰り返して、土ぼこりになって散ってしまう前に最後に褒めてやろうとか、そういうことをしようとしてたけど?」

 メアリーが邪慳じゃけんに答える。

 そうだった……。

 謝ろうか、どうしようかと、ぼんやり考える。

 「まあ、いいけどね」

 その前にメアリーが言った。

 「あそこまでたかぶらないと、あんた、目が覚めなかっただろうから」

 「めが……さめる……?」

 ブリジッドは言われたままを繰り返す。

 メアリーは、じっとアンの目を見た。

 今度は斜めにではなく、顔をはっきりアンのほうに向けて、両目で。

 目を伏せるのもへんだし、目を伏せたらメアリーに何を言われるかわからないので、あいまいにメアリーを見返す。

 「目は……覚めたけど?」

 言う。

 「まだぼやっとはしてるけど……」

 メアリーは息をついた。

 「そうか……自分ではまだ気づいてないんだね」

 「何に?」

 「あんたさ、女神さまなんだよ。それに気がついたでしょ、って言ったつもりだったんだけど」

 メアリーは平然と言い放つ。ブリジッドは目を丸くした。

 たしかに、目が覚めるような話ではあるけれど。

 「はいっ?」

 「まだなんだね」

 「ああ」

 またぼうっとしてくるような……。

 「それに、神様なんて……」

 メアリーは気丈に言った。

 「もちろんチャペルで拝む神様とは違う。つまり、被造物ひぞうぶつには違いなくて、わたしたちにもっと近い神様たちのことだけど、あんたって、その一人……」

 「はい……」

 「もっと正確に言うと、その女神さまの分身の一人」

 神様たちの一人の女神さまで、その女神さまのさらに分身の一人……?

 「はぁ……」

 わたしたちに近ければ、女神さまに対して、そんなにぞんざいな口を利いていいのだろうか?

 もしかして、このメアリー、お嬢様に対してもこんな口を利いているのか?

 「ま、わたしもうかつだったよね。女神さまに向かって剣で刃向かおうとしたら、それは土くれにされて耕されてもこね回されても文句言えないよね」

 「ああ……」

 「魔女の分際でさ」

 言って、メアリーは目を上げる。

 「ああ」

 あの気もちの昂ぶっていたときのことはもうぼんやりとしてしか思い出せないけれど、そのことばは覚えている。

 「泉の魔女……?」

 「そう」

 メアリーは笑みを浮かべた。

 「わたしたちは代々この泉を守ってきた。母親から娘へとその役割を受け継いで。ここがウィンターローズ荘っていう荘園になる前、そのずっと前から、わたしたちはこの土地を守ってきたんだよ」

 「はあ……」

 「もっとも、ほんものの泉の魔女はずっと昔にもういなくなってて、わたしたちはその影みたいなものだけどね」

 「はあ……」

 何を言われたのか、よくわからないが。

 でも、メアリーが魔女だというのは、どうやらほんとうらしかった。

 二人が座っているのは、メアリーの一族が守ってきたという泉のほとり、枯れ草に囲まれて突き出している小さな岩の上だった。一つの岩にメアリーが座り、別の岩にブリジッドが座らされている。

 メアリーの座っている岩のほうが低いのは、女神さまの台座のほうを高くしてくれたのか。

 それとも、ブリジッドがまだ小さいから、顔の高さが揃うようにしてくれたのか。

 メアリーがどんなに背が低く体が小さいと言っても、歳下のブリジッドよりは背は高いのだから。

 「いや、えっと……、その」

 ブリジッドは正直に告げることにした。

 「ぜんぜん、わけがわからないんだけれど……」

 「そのうちわかるようになる」

 メアリーは笑っていなかった。

 「わからないで、そのうち今日のことも思い出さなくなるなら、それはそれで幸せ……そっちのほうが幸せかも知れない」

 いや、幸せじゃないです。

 皿洗い女中なんて。

 土のかたまりにされて、耕されたりこね回されたりするのよりはましかも知れないけれど……。

 いや。

 あのとき、自分はこのメアリーに自分のつらさ苦しさを押しつけようとしていたんだ。

 あの仕事を夜まで続けていると、ほんとうに、手や足がもとのとおりについているか、それともつぶれて肉の塊になってしまったかわからないほどになることがある。

 そうなっても指先だけは動かしていないといけないのだ。そうでないとお皿が洗えないから。靴も履いている。足の感覚はとっくになくなっていても、靴でどこを踏むかはきちんと意識していないとつまずいてお皿を割ってしまうから。

 それを……。

 メアリーは、息をついて泉のほうに目をやり、続けた。

 「おかしいと思ったんだよ、空が晴れたから。それに、念のために張ったさわらびの結界を破って、それを使いこなしてわたしを攻撃してくるなんて」

 月はいまも泉を照らしている。空は晴れているはずだ。

 「空が晴れたっていうのは、晴れたから晴れたんじゃなくて?」

 「あんたが晴れさせたの!」

 メアリーはねたような言いかたで答えた。

 「そうじゃないと、いまの季節、こんな夜の分厚い曇り空、晴れるわけないじゃない?」

 「じゃあ、さわらびの結界って?」

 メアリーは険しい目でブリジッドを見る。

 「あんたがさっきさんざん使いまくってたじゃない? あのぜんまいみたいなやつ」

 「あれって……あんたの持ちもの……?」

 皿洗い女中がお嬢様のお相手役の女中にこんな言いかたはしてはいけないのだろうけど、女神さまが魔女に言うのなら、これでもいいだろう。

 「持ちものっていうより……まあ」

 お相手役女中もぞんざいに答える。あまり女神さまを尊敬はしていないようだ。

 「魔法だね」

 「ああ……」

 「あれには人間でも魔物でも惑わされる。あのぐるぐる回っているのに惑わされて、先に進めなくなるはずなんだ。でも、惑わされなかっただけじゃなくて、あれを操れたんだから、つまりあんたは女神さま」

 いまでも、女神さまが魔法使いに向かって話しているという気分にはなれない。

 しかし、皿洗い女中が、もっと位の高い女中に向かって話している気分でもなかった。

 では、何なのだろう?

 メアリーが息をついて立ち上がった。

 「さ、聖水も汲んだし、帰ろうか。立てるよね?」

 「えっ?」

 まだ体が動かせるかどうか、ブリジッドには自信がない。

 「立てるよね!」

 言って、手を引っぱって立たせようとする。

 うわ、やっぱりこの子はいじわるメアリーだ。

 思って、ブリジッドは力なく笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る