第7話 泉の魔女

 ブリジッドの体は軽く泉の上に舞い上がった。舞い上がったまま落ちない。

 足もとを見る。

 足の下に大きなあのぜんまいの渦巻きが生まれて、それが体を支えている。

 そうなることは、わかっていた。

 知っていた。

 ずっと前、生まれたとき、いや、生まれるずっと前から。

 このぜんまいさえうまく操れれば、いじわるメアリーをやっつけるなんてかんたんだ。

 右手を振り、メアリーに向けて、小さなぜんまいを一つ投げつけてやる。

 「あぁっ!」

 悲鳴を上げてメアリーは体を捩る。ぜんまいはメアリーの脚のすぐ横を行き過ぎる。

 いや、そのちいさなぜんまいは戻って来て、メアリーの右足をざくっと傷つけた。そのメアリーの肉に食いこむ刃の感覚、そしてメアリーが感じたはずの痛みの一部分まで、ブリジッドの胸に戻って来る。

 メアリーは顔をしかめて、泉の上から自分を見下ろしているブリジッドを見下ろす。

 くやしいのだろうか?

 いや、まだ信じられないのだろう。

 たかが皿洗い女中ごときが、自分の前に立ち、空から自分を見下ろしていることに。

 何をするか、しばらく見ていてやろう。

 どうせこんな小娘には何もできないのだ。

 「もう……しようがないなぁ」

 脚の傷にもかまわず、メアリーは脚を前後に開いて構えて立った。

 さっき水を汲んだ瓶を取り出し、栓を抜く。

 そのガラスの栓の先を見つめ、その栓をすばやく上下左右に振った。

 やっと十字を切ろうというのか?

 そうではなかった。

 栓の先から飛んだ水のしぶきの跡に剣が生まれていた。

 真鍮しんちゅうの色を鈍くしたような色の剣だ。刃にも柄にも何かの模様が刻まれている。

 小柄なメアリーには大きすぎる。胸の前で構えて、刃の先は頭のはるか上に出ていた。

 「なまいきな」

 ブリジッドはつぶやく。

 「泉の魔女の分際で」

 その短い低い声に応えるように、メアリーは動いた。その動く先に、中ぐらいのぜんまいを投げつける。

 メアリーは剣を操ってぜんまいを切り捨てた。切られたぜんまいの鈍い傷みがブリジッドの身体に戻って来る。

 「くっ……」

 傷みはたいしたことはない。それより、あのちんちくりんのメアリーが、よくあの剣を振り下ろしたと感心する。

 メアリーは走っている。泉を離れて、林のなかに逃げこみたいようだ。

 そうはさせない。

 ブリジッドは右手を大きく振った。

 右手の腕から次々にあのぜんまいが生まれる。そのぜんまいはこんどはブリジッドの腕を離れず、根をブリジッドの腕に残したまま、大きく伸びていく。ブリジッドの体の何倍にも大きく成長する。

 あのぜんまいの外側についていたぎざぎざの刃のようなところが伸びて育って枝葉のようになる。

 ぜんまいはざわざわしたかたまりになって、メアリーに覆いかぶさった。

 メアリーは後ろを向いてまた剣を振り下ろす。

 そんなので防げるものか。

 何本かのぜんまいが切り取られたのが伝わってきた。でも、ほかのぜんまいの先は大きく茂って、四方八方からメアリーの体を取り押さえている。

 動けはしまい。

 このまま岩の上に押しつぶされ、体をぜんまいの刃にきりきざまれ、ぶすぶすと穴を開けられ……。

 いや、この手応えは何だろう?

 ぜんまいの茂みが覆っているので、メアリーの姿を見ることはできない。

 手応えはある。でも、押し伏せられているようすではない。ぜんまいの先がメアリーの体に食い込んでいるのではなく、何か、大きく揺れるような……。

 メアリーがぜんまいにとらえられ、身もだえしているのだろうか?

 その揺れは、ただの身もだえとは違うようだ。

 何より、あのいじわるメアリーがこうかんたんに取り押さえられてしまうはずもない。

 そんなことになったら、おもしろくない。

 「ブリジッド!」

 すぐ近くから呼びつけられ、ブリジッドはとまどった。

 また皿が足りないのだろうか?

 だれかが皿を割ったのをブリジッドのせいにしたのだろうか?

 そんなのではない。いまブリジッドはメアリーと……。

 「目を覚ましなさいっ!」

 「わっ!」

 すぐ目のまえのぜんまいの茂みをかき分けて、メアリーが顔を見せる。

 色白の、清楚な美人……。

 それが、黒い瞳を開き、赤い唇を開けてブリジッドを叱りつけている。

 ぜんまいの枝をよじ上ってきたのだ。剣でぜんまいの枝を切り開いている。

 ぜんまいの枝に立ち、ブリジッドに向かって剣を振り上げる。

 ブリジッドは右腕からぜんまいを切り落とす。

 「ああっ!」

 重い枝を切り捨ててブリジッドの腕が軽くなる。同時に鋭い痛みが右腕からブリジッドの全身を走り抜ける。

 あのぜんまいはブリジッドの体の一部なのだ。

 よくも……!

 反射的に左の腕を波打たせていた。またぜんまいが伸びる。伸びつつ枝葉を伸ばして茂る。

 メアリーは足場を失って体を立て直そうとしているところだった。そこに百本の鞭をいっしょに振り下ろしたようぜんまいの茂みが襲いかかる。メアリーはあわてて剣を両手で持ち、そのぜんまいの茂みを防ぐ。

 体に当たるのは防げたが、そんなのでは勢いは止まらない。

 メアリーの体は剣ごと勢いよく飛ばされた。月の光の下を、力なくくるくると回りながら、メアリーの体が飛んで行く。

 こんなので許してやるものか!

 ブリジッドが追う。足もとの大きなぜんまいを力いっぱい蹴る。飛ばされているメアリーより速い。林へと落ちて行くメアリーを追い抜く。

 メアリーは気づいていない。

 ブリジッドは足に力を入れた。足もとにさっきより大きなぜんまいの渦巻きが生まれ、空中に立ち止まる。

 背中を向けてメアリーが飛んでくる。その栗色の短髪が胸のほうになびいている。

 ブリジッドは両手をそのメアリーに向けて突き出した。

 「あーっ!」

 今度こそ!

 「あーっ、あぁあーっ!」

 メアリーの悲鳴が空に響きわたる。

 「ふふん……」

 ブリジッドは残忍な笑みを浮かべた。

 「泉の魔女の分際で……」

 あれ、同じ女中の分際で、と言うつもりだったのに、という思いが浮かんで通り過ぎる。

 それより目のまえのメアリーだ。

 メアリーの体は肩の骨の後ろからブリジッドのぜんまいに刺し貫かれていた。

 ぜんまいの先はメアリーの胸を突き破って、その体の前に出ている。

 「ああっ、あっ……」

 メアリーの体の苦痛がそのぜんまいを通じて伝わってくる。

 その苦痛の感覚に応えて、ブリジッドは指先をもぞもぞさせる。

 「あぁあぁーっ!」

 手応えがあった。

 そうか。これが痛いのか。

 だったら、メアリーの体の中に、もさもさとぜんまいの枝葉を茂らせてやる。

 ぜんまいは、体の中から、体の外から、自在に行き来してメアリーの体を突き破る。

 突き抜けて、また戻って来て、また突き破って。

 「ああっ……ああっ……」

 体のどこかの部分を突き破られるたびにメアリーは身もだえする。

 いや、ただもだえているだけではない。

 この女はまだあの剣を握っている。その剣を握った腕をなんとかしようと腕を動かしているのだ。

 剣でなんとかできるばあいではないだろうに。

 ブリジッドは笑う。

 メアリーの胸から突き出ていたぜんまいを茂らせる。

 胸から腕へ。腕に沿ってぜんまいの先を伸ばしていく。

 外からではなく、自分の胸から生えたものに、とらわれ、締めつけられ、苦しめられる。

 メアリーの激しい息づかいが伝わる。なんとか剣を逃れさせようとしているのだ。

 むだなことを。

 ぜんまいの先が手首に達したのがわかった。しばらく間を置いて、左右同時にねじり上げてやる。

 「うわわあーっ!」

 メアリーが絶叫する。剣は取り落としただろう。それでも抵抗するメアリーに軽いお仕置きだ。

 ぜんまいで両腕を覆ったままだ。そのぜんまいの枝葉をまず何倍も茂らせる。

 メアリーの腕にぜんまいがきつく巻きつく。腕の肌を突き破り、腕の中まで食いこむ。

 そして、そのまま、勢いよくぜんまいを引き縮めた。

 「あーっ……」

 メアリーの腕は逆らえなかった。ぜんまいといっしょに無理やり縮められた。両腕はつぶれ、またくうちに醜い肉のかたまりになって肩に貼りついた。あの白くて細くて華奢な腕が、いまは丸い肉のかたまりだ。その肉のかたまりの先に半分埋もれているのに、メアリーの指の先は未練がましく動いている。

 「あんたぁ……」

 メアリーの声に勢いがなくなる。

 「いいかげんに……」

 これでもまだ命令するつもりか!

 メアリーの体を見ると、首筋も背中も、肌をぜんまいに食い破られて、あちこちからその葉や枝が出て、服の下で茂っている。

 足がだらんと垂れていた。両足がぶらぶらと揺れている。

 いや、そうではなかった。

 メアリーは渾身の力をこめて、その両足を前に挙げ、その反動で力いっぱい後ろ蹴りを入れてきた。

 「ぎゃっ!」

 しかし、少し届かなかった。

 背の低いメアリーでは。

 そして、メアリーの足は、ブリジッドの足を取り巻いているぜんまいに触れてしまった。

 許さない。もっとお仕置きしてやる。

 泉の魔女の分際で!

 ブリジッドは華奢なメアリーの両足の肌を破ってぜんまいを突き入れ、その内側にも外側にも枝と葉を茂らせてやる。

 そして、きゅっ。

 力はいらなかった。メアリーの足はあっさりと引き縮められ、二つの肉のかたまりになってしまった。靴は脱げなかったらしく、醜いかたまりから靴の先が突き出して、力なく揺れている。

 このままメアリーの体全体を醜い血と肉のかたまりにしてやる。

 ぼとっと落としてやる。

 そして、つぶれてただのかたまりになったまま生きるメアリーを、この泉のほとりに置いて、毎日食事を持ってきて、養ってやろう。

 食べ残し、調理くず、使わずに悪くなってしまった野菜と、かたまりになったメアリーにあてがうぐらいの食事なら、いくらでも手に入る。

 逆らったら叱りつけ、逆らわなくても叱りつけ、泣いたら頭を踏み、怒ったらかたまりになった体を棒でかき混ぜて苦しませる。体に雑草が生えたら大きくなって根がしっかり張るまでほうっておいてから、力いっぱい抜いてやる。そのうち、木だって生えてくるかも知れない。

 体はずたずたで、人間に戻る望みは遠のく。

 でも、メアリーは信じ続けるだろう。自分は人間に戻れると。

 だから、最後に、褒めてやろう。

 よくがんばったね、と。

 がんばりたくてがんばっているわけではない、半ば土のかたまりになりかけのなまいきメアリーは、褒められていったいどう思うだろう?

 冬には雪の下に放置して体を凍らせてやる。春にはまたやってきて重い靴で踏み荒らし、そのかたまりになった体をくわで耕してやる。

 それを、毎年、繰り返すのだ。

 そのうちメアリーはほんとうに土のかたまりになってしまう。そして土ぼこりになって散ってしまう。

 それまで、いくつの季節を過ごさせてやろうか?

 できるだけ、ゆっくりと。

 「ブリジッド……」

 もう勢いを失った、あとは土のかたまりにされるのを待つだけのメアリーが言った。

 「いいかげんで……目を覚ましてよ……」

 ふふっ、と笑う。

 答えるように、ブリジッドは、自分の体で生み出せるだけのぜんまいを生み出し、そのすべてをメアリーの体へと注ぎこむ。その葉でメアリーの体を内側から細かく切り刻み、枝でその体のあらゆるところを突き破り……。

 そして、それを縮めてやれば……。

 「目を……覚ま……して……」

 そのメアリーの弱々しいもだえに応えて、もう一段、力を入れてぜんまいを繰り出す。

 ふと、ブリジッドの胸のまんなかにすき間が生まれた。

 「あ……えっ?」

 そのすき間はひとりでに広がって行く。

 あたりまえだ。

 それでいい。

 自分の体がすき間になるということは、それだけ力がメアリーの体に注いでいるということなのだから。

 そうぼんやり考えているあいだに、ブリジッドの胸に生まれたすき間はどんどん広がって行く。

 そういえば、月が照っていたんだ……。

 それに気づいたのは、その胸のすき間から、日の光よりも明るく暖かな光が漏れているのに気づいたからで……。

 「えっ……? えっ、あっ?」

 もう止めようがなかった。止めていいかどうかも考えられない。

 その光は、服のすき間からブリジッドの顔を照らし、服を突き抜けてブリジッドの体を照らして、またたくうちに泉と林へと広がって行った。明かりはまぶしさを増し、牧草地へ果樹園へ、水車小屋から女中部屋へそして母屋へ、そしてベリーズベリーの街からさらに広くこの国とこの国の空じゅうへと広がって行く。

 「あーっ……あっ、あーっ……」

 暖かだった。そして、何もできなかった。

 喉を軽く絞められているような気もちの悪さが残る。

 ブリジッドがいためつけたメアリーの体がその明かりに触れてもとに戻っていく。

 明かりは、地と空からブリジッドに返って来て、ブリジッドの体をも温かくする。

 ブリジッドの体もいまの無理な攻撃で傷つき、いま癒されているのかも知れない。

 「やっと……目を覚ましたね……」

 目のまえでメアリーが言った。

 ほほえんで。

 白くて華奢で、伸びやかな手足と、やせっぽちのきれいな身体を持った栗色の髪の娘……。

 泉の魔女、メアリー・ファークラッドが。

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