第5話 回る黒いぜんまい
道は何度か枝分かれした。いじわるメアリーは、そのなかで、いちばん険しい道を行く。
林のなかで、ところどころに岩場がある。
でも、見通しはいいので、その姿は見失わない。
月の明かりにちらちらと見え隠れするそのメアリーの白い服を見ている。
大きな岩がそそり立つ手前で、そのメアリーがふと立ち止まった。
気づかれたのだろうか?
ブリジッドは持ち前の身軽さで木の陰に隠れ、メアリーに見とがめられないようにして、そっと様子をうかがう。
メアリーは後ろを気にしているのではなかった。
胸のあたりから何か酒の
酒を飲みに来たのか? それとも女中の分際で香水を使いに来た?
どちらにしても、わざわざこんなところまで来てやることではない。
メアリーはそのまままた歩き出した。後ろを気にしている様子はない。
ブリジッドも続いて歩き出す。
しかし、メアリーはどこに行く気だろう?
だれかに会いに来たのかも知れないけれど……。
少なくとも、その相手はこのお屋敷の人間ではない。
では、と目を上げたとき、ブリジッドはまた自分の周りが奇妙なことになっているのに気づいた。
いつからそうなっていたのか、わからない。
夜の月明かりの下、林のなかだ。
月の白い光と、その明かりに照らされたあのメアリーの後ろ姿と。
それ以外の林のなかは暗い。
白と黒しか見えない。
その黒の部分が、木立とは違ったかたちになり、うごめいていた。
錯覚に違いないと思った。
あの女中部屋の、何が漂っているかわからない空気にあたったのだろう。
たぶん、アヘンか何かの。
そんな空気を吸ってから走り続けて、その毒が回ったのだ。
立ち止まって、大きく息をすれば、治る。
そう思って足を止める。
とたんに、その黒いものがいっせいに近づいてきた。
それはぐるぐると回りつづけていた。車のように、ではなく、ぜんまいのように、だ。
その回りつづけるぜんまいが、体のまわりにいくつも現れる。
「え……えっ……?」
どちらを向いても回りつづける黒いぜんまいだ。大きいもの、小さいもの、ゆっくり回るもの、速く回るもの……。
ぜんまいの端はぎざぎざで、触れると肌が切れそうだ。
でも、それはブリジッドのまわりを囲んでしまうと、もうまわりで回っているだけで、近づいてこない。
もう林の木立も見えない。月の明かりも見えない。
あのいじわるメアリーの背中は……?
踏み出してみよう。メアリーがいるはずのほうに。
足を踏み出してそのぐるぐる回るぜんまいに体が当たるだろうか?
当たらなかった。ぜんまいが道をゆずってくれたようだ。無数の大きなぜんまいは、体のすぐ近くで回っているようでもあり、ずっと遠い、お星さまより遠いところで回っているようでもある。
傷はつかないんだ、当たらないんだ、ただ回って見えるだけなんだ、と思うと、歩き続ける勇気が出た。
走ることはできない。足がむずがゆくて、ゆっくりならば歩けても、速くは歩けない。
ふと足もとを見下ろす。
「えっ?」
小さく声が漏れる。
自分の足を軸にして、あのぜんまいがいくつもいくつも回っていた。
「えっ? えっ?」
ふと目に入った手首の様子がおかしかったので、右手を目のまえにあげて見る。
やっぱり右手の腕を軸にするようにして、あの黒いぜんまいがいくつも回っている。
左手を見る。やはり同じだった。いや、目を凝らしてみると、体のまわりでいくつもぜんまいは回っているらしい。
いつの間にか、回りつづけるぜんまいにブリジッドが取りこまれてしまっていた。
「えっ? えっ? こ、これ……」
目を閉じようとする。でも閉じられない。
怖くて。
目を閉じて、また開いたときにはそれが消えていればいい。
でも。
目を閉じているあいだにもっといっぱいのぜんまいに取り巻かれていたら?
痛くはない。苦しくもない。
でも、歩いている感覚もない。
悲鳴を上げそうになるのを、抑える。
歳上の女中たちにいじめられて泣きそうになったときのことを思い出してみる。
落ちついて。
いま自分に何ができていて、何ができなくなっているかを考えてみる。
歩いている感覚はない。
体は、初夏、はじめてじとっと汗をかいたときのようにむずがゆくて、生温かい。
それだけだ。
そして、自分はまだメアリーを追って歩いているのだ。
歩いているのか走っているのかはわからないけれど、ともかくメアリーから離されないように動いている。
だったら、いい。
気もちが落ち着いた。
この黒いぜんまいに取り巻かれる前より落ち着いた。
メアリーがどこに行くか、見届けてやる。
それにしても、何のためにメアリーを追っていたんだっけな……?
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