第3話 逢い引き

 い引きならば右側の雑木林のほうに入るのだろうと思っていたら、メアリーはそちらには行かなかった。

 水車小屋の少し上で小川にかかった木の橋を渡る。向こうは果樹園と牧草地のはずだ。

 そんなところまで、ブリジッドは行ったことがない。

 メアリーは水車小屋で相手と落ち合うつもりだろうか。

 たしかに逢い引きにはちょうどいい場所だけど。

 いや。

 メアリーは、水車小屋は素通りして、果樹園のほうに行く。

 この闇の中でも、いじわるメアリーが明るい色の服を着ていてくれるおかげでその姿を見失わないですむ。

 きっといつも着ている水色のドレスなのだろう。

 だが、もうここはブリジッドにとっては知らない道だ。

 メアリーは通り慣れているのだろう。

 ブリジッドはしだいに離されていく。

 メアリーは牧草地にも入らなかった。メアリーの行く道は果樹園の向こうにゆるく曲がっている。

 逢い引きに行くのに、どうしてこんな遠くまで?

 相手は、果樹園係か、猟場りょうば係か、それとも厩舎きゅうしゃ係か。

 でも、そんなところの使用人に、若い男なんかいたかな?

 思い出してみようとするけれど、無理だ。

 思い出せないのではなく、最初から知らない。朝から晩まで台所に閉じこめられっぱなしの皿洗い女中には、同じ屋敷内の奉公人にすら会う機会はない。

 だから、よけいにくやしいのだ。

 夜にこんなふうに出歩くふしだらメアリーが、自分よりずっといい暮らしをしている、ということが。

 でも、もう追うのはやめて、女中部屋に戻ろうか?

 あの人たちの大騒ぎも、そろそろ収まる時間だろう。

 いや。

 収まっていないかも知れない。

 収まっていても、まだ、安い煙草の煙が立ちこめているだろう。

 煙草だけならばまだいい。

 それに混じる、甘くてクセのあるにおいは?

 それはアヘンというものの煙であるらしいと最近知った。

 アヘンを吸い続けると、身も心もぼろぼろになって、それでますますアヘンがほしくなって、最後には痩せ細って死ぬという。

 においがかすかに漂うくらいで、そうなるかどうかはわからない。

 でも、どうかわからない、ということは、そうなるかも知れないということだから。

 せめて、そのにおいがわからなくなるくらいに薄まるまでは、帰らないことにしよう。

 だったら?

 そうだ。

 いじわるメアリーに引き離されたら、そして、そのにおいがもしまだ収まっていなければ、お嬢様のお屋敷に行こう。

 あのいじわるメアリーが鍵をかけていないとすれば、なかにはそのアンという妹がいるはずだ。

 そのアンをおどかしてやろう。それでそのアンがお姉ちゃんの助けを求めても、お姉ちゃんは部屋にいない。

 アンはどう思うだろう……?

 そして、アイリスお嬢様は?

 女中の逢い引きなんて珍しくもないし、執事さんも女中頭のサラさんも知っていて見ぬ振りをしている。

 でも、ブリジッドより少し歳上なだけの、しかもお嬢様のお相手役の女中が夜中に抜け出して逢い引きとなれば……?

 あのいじわるメアリーも格下げになって、あのおっとりしたお上品な妹といっしょに皿洗い女中にされてしまうかも知れない。

 きっといじわるメアリーは泣くだろう。まず格下げされた屈辱に、そして、仕事のつらさに、さらに、同じ女中部屋の女中たちの容赦のないいじめに。何度も何度も泣くだろう。泣いて泣いて、それでよけいにばかにされ、それだけひどいいじめに遭うのだ。

 そしてあのアンというおっとりした妹も。

 そのお上品アンには親切なふりをして近づいてやろう。なぐさめてやろう。そして、いい考えがある、といって、アンという名まえを取り上げてやるんだ。ブリジッド自身がやられたのと同じように。そして、もっといやな名まえをそのアンに押しつけ、そして、このアン・ブリジッド様の手下にして、こき使ってやろう。自分はだまされ、こき使われていると気づいたとき、そのお上品アンが頼りにしてきた姉のメアリーは苦しみのどん底だ。妹の苦しみにつきあうどころではない。したがってお上品アンはだれにも助けてもらえない。それどころか、助けてくれるはずの姉がみじめさの限りをつくしているのを目の当たりにするのだ。

 そしてお上品アンは泣く。いつまでもいつまでもしくしく泣く。泣いてもあのお上品さは失わない。そのときのそのみじめな泣き顔に何をしてやろうか……?

 両手で思い切り殴りつけてやろうか。

 いや。

 殴るより、地面に膝をつかせて、蹴ってやったほうがいい。十回ぐらい左右から蹴りを入れてやろう。

 そうだ。街では男の子たちまで蹴っ飛ばして手下にしていたこのアン・ブリジッド様なのだ。

 ずっと早足で歩いて体が温まり、血のめぐりがよくなったからだろうか。

 ブリジッドは街で走り回っていたころの身軽な身のこなしが戻って来たように思った。下り坂を軽く走って、いじわるメアリーとの距離を詰めようとする。

 さあっと牧草地と芝生の草がいっせいに葉音を立てたように思った。

 「わあ」

 ブリジッドは顔を上げ声を立てた。

 雲が切れ、月が照ってきた。

 その月の明かりは、水車小屋のあたりを照らし、小川の水をきらめかせ、やがて芝生から牧草地へと広がって行く。

 ブリジッドは坂を下りきって木橋のところまで来たときには全力で走っていた。まだ息が切れるほどではない。その勢いを弱めないまま、いじわるメアリーのあとを追って行く。

 これでメアリーを見失うことはない。

 メアリーがわざと姿をくらまさなければ、だけれど。

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