7時の夕食までには帰りましょう②

 瞬間、圭太は息が出来なくなった。


 だった。その水底のような瞳の奥を、覗けば覗くほど、沈めば沈むほど。暗い緑になり、そして、暗い黒に塗りつぶされるであろう蒼い虹彩。

 ……ああ、見覚えがあった。


 ちゃぷちゃぷと無邪気にわらう白波。手を伸ばしても足を動かしても届かない砂浜。どんどん小さくなる家族のみんな。

 泣き叫びながら、ふと、顔を下げると、底が見えない透き通った蒼が、どこまでも広がっていた。

 

 あの時、幼いながら気付いた。あれは、イルカよりクジラより、もっと大きなナニカが海底に寝そべり、こちらを見詰めている瞳なのだと。


 ーでも、なんでか、ずっとみていたい。あの、おくにいるのは、いったい、なんなのだろうか。


 その刹那、聞き慣れた着信音が鳴り響いた。

 とっさに視線が外れ、急に息を吸ったら激しく咳き込んでしまった。小学生の頃、クラスメイトたちとプールで息止め競争をし、おぼれかけた時を思い出す。

 小首を傾げたイーシェに大丈夫か?と、本当にそう思っているのかはなはだ疑問に思うほどに感情が希薄な声を掛けられつつ、圭太は目線を合わせないようにして引きつった笑顔を返した。

 咳も治まってきたところで、無機質な着信音で騒ぎ立てるスマートフォンを尻ポケットから取り出し、着信ボタンを押した。

『ちょっと圭太! あんたケチャップ買ってくんの忘れたでしょ! いっつもスマホでゲームしてるクセして何で肝心な時は見ないのよ!』

 いつもの景子の金切り声で安堵するなんて、ホントどうかしている。分かった分かった、ごめんごめんと素直に返事をする。

『……ん? なんかやけに素直ね。ああ、そうそう。お菓子とかアイスとかついでに買ってきて。歓迎会するってお父さんも折り紙で輪っか作ってるし。良い? 変なこと言うんじゃないわよ』

 母親の一方的な伝達を切り上げ、圭太は立ち上がって深呼吸をする。そして意を決して、こちらを見上げるイーシェを見下ろした。

 ……少し距離が空けば大丈夫か。ふぅと溜まっていた息を吐きだした。あまり見かけない目の色をしているから驚いてしまったようだ。まだ胸の奥がドキドキする。……いや、違う。多分これは、恐怖や驚きとはまた別の胸の高鳴り。

 左右対称でシミ一つない卵型の顔立ちに、浅黒い肌に映える淡い桃色の薄い唇。弧を描いた金色の柳眉に、切れ長の二重まぶたを覆う憂いを秘めた長いまつげ。無表情なのも相まって、まるで熟練の技師が作り上げた精巧な人形と見紛う造形美であった。

 そう、だから圭太は確信した。こんな綺麗な顔をした男が、この世に存在するかと。(どことは言わないが)体型は華奢どころか絶壁とも言えるも、うちの妹の紀子のりこも同じようなもんだしな。ああ、夢にまでみた金髪褐色美人と同居できるなんて、今日だけは両親に感謝しねーとな。

 圭太の暑苦しいピンク色の視線に、表情薄く答えていた彼女だったが、ふと顔を背け、膝に置いた仮面を握りしめた。

「その、やはり仮面をした方が……」

「え?! いやいや何言ってんだよ! そのままの方が良いって! もったいねーだろ!」

 反射的に、下心丸見えの圭太はその細い肩をガシッと掴んでいた。

 はっと我に返り、慌てて謝りながら手を放して距離を取った。しかし彼女は全く気にした様子も無く、腑に落ちないと言わんばかりに小首を傾げ、圭太を見つめていた。

「勿体ないとは、どういう意味だ?」

「だってお前、顔ってのは個性なんだから隠したら意味ねーだろ。めっちゃ綺麗な顔してんだからそのままにしとけって」

 もしイーシェが男であったら、それはもう妬みまくっていただろうが、美人は別だ。こっそり隠しておきたい気持ちも分かるが、出来ればずっと眺めていたい。憧れにも似た心地である。

 イーシェは変わらず、何を考えているのか良く分からない無表情だったが、ふと合点がいったかのように大きく頷いた。

「そうか、私は綺麗な顔なのか。知らなかった。ケータは物知りだな」

 照れるでもおごるでも謙遜するでも無く、何故か満足気にも見える彼女に、予想だにしない返答をされてしまった。美人とは幼いころから持て囃されて育つもんだと思っていたが、案外そんなこともなかったのか。

 圭太は妙な違和感を覚えつつ、思わず脱力してしまった。まぁ、仮面の話題を逸らすことには成功したし、良しとするか。腰に手を当て伸びをすると、ポケットから財布が転がり出た。咄嗟に地面から拾い上げ、そこではたと、達成すべきお使いクエストを思い出した。

「そうだ、買い物行かなきゃいけねーんだった。えっと、イーシェ……さんはどうする?」

「どうする、とは?」

「え? 俺、これからスーパー行くんだけど、ここかウチで待つか、一緒に行くか、どっちにするっつー意味だけど」

 すると、イーシェは微かに目を見開いた。

「ああ、そうか。私が選ぶのか」

 片手を顎の下に置き、小首を傾げたままの姿で数分が経ち、思わず痺れを切らした圭太が声を掛けた。

「いや、そんなに悩むことでもねーだろ。行くの面倒だったら待ってりゃいいし、行きたかったら来りゃいいじゃねーか」

「ケータはどっちがいいと思うんだ?」

「は? 俺? 俺はまぁ……母さんに言われたし、来てもらった方がウチの近所案内出来るけど。大したもんはねーけどな」

「そうか、ならば共に行こう」

……すげぇ優柔不断だな。結局、仮面外す云々も俺が決めたもんだったし。まぁ、可愛いから良いか。

 3歩ほど距離を空けつつ、仮面を片手に後を追って来る見目麗しい不思議なひな鳥。ほんのちょっとの疑念がチラつくも、それを覆い隠すように期待を多大に募らせるばかりであった。




 

 

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