第一章 7時の夕食までには帰りましょう①

 2015年5月2日土曜日15時31分

『おれも何でかよく分かんないんだけどさこれからうちに留学生が来ることになったからついでに母ちゃんがケチャップ買って来いって』

「……マジでか」

 2時間前に送信された、句読点が見当たらない父親の正徳まさのりからのメールを今開き、圭太の口から漏れたその独り言は二つの意味を含んでいた。

 一つ目は3K(きつい汚い金無し)の単なる団地の一部屋でしかないウチに留学生が来るという、夜勤明けの謎高テンションの正徳が書いたのであろうふざけた冗談に、良い歳こいて何してんだこのオッサンはという軽蔑マジでと、二つ目はたった今、右手に握りしめているのはケチャップではなく自宅玄関のドアノブで、持っている訳がないというマジでりだった。

 素直に買いに行くという選択肢もありなん、面倒くさいのですぐにメールなんて見なかったそうしようと思い立ち、極めて平静を装いながらドアを開けた。

 生活感が溢れすぎてうんざりする我が家の玄関口兼リビング兼キッチン。シールの剥がし跡だらけの食卓に揃って並ぶ、凹凸した両親の丸い背中。見慣れたいつも通りの日常。かと思いきや、玄関口に見慣れない小奇麗な白いスニーカーが一足揃っている。はたと顔を上げると、その両親の合間から覗くのは、異質な大きい青い鳥。ふと、窪んだ暗い目元から、見えない視線とばっちり合ったような気がした。

 圭太は即、ドアを閉めた。


 その一連の流れが数十分前に起きた、青い鳥を模した仮面を付けた怪人物、もとい、イーシェとかいう留学生との出会いだった。

そして現在いまはというと、団地の棟間に広がる中庭で、二人肩を並べてベンチに腰を下ろしていた。家中を掃除するからと、母親の景子けいこに追い出されてしまったからだ。

「えっと、そのー……どっか行きたいところとかある……あります?」

 三人掛けのベンチの端を陣取った圭太の真隣に腰を下ろした留学生に、少々身体と顔を引きつらせつつ、幾分ゆっくりとした口調で問うてみた。イーシェは圭太に仮面を向け、首を横に振った。

 あ、ホントに日本語が通じるのか。外国語なんか喋れねーし。ちょっと安心。……まぁ、そりゃあ来たばっからしいし、どこに何があるかなんて知る訳ないよな。

 何かアホなことを聞いてしまったと、圭太は鈍痛の残る右耳を摩りながら、気まずくなって口を閉ざした。それでも好奇心には抗えず、本人に悟られないように盗み見しつつ。

 この中庭は、小さいひょうたん型の池を囲むように二基のベンチと低木が群生しており、団地の集合玄関口に繋がる小道や人通りの多い道路に面してはいるものの、ベンチに座ってしまえば奇異の視線に晒されることは少ないはずだ。顔から下は黒のカーディガン、紺の長ズボンという非常にシンプルな恰好なのに、異国情緒たっぷりの青い鳥の仮面という組み合わせが、明るい異文化交流どころか戦争になりかけているこの姿を、ご近所様に大ぴらにお見せしたくないというのが圭太の正直な思いだった。

 そして、かつては満天の星空が描かれていたはずの外装だが、今は見る影も無くボロボロに剥がれ落ち灰色の曇天と化してしまった団地我が家の外壁を眺めている様子の彼女。

 いや、彼……うーん、彼女であってほしいのだが。

 そう、圭太にとって今後の生活に多大なる影響を与えるであろう、もっとも重要な情報を入手しそびれていた。

 背が高く、華奢な身体。ミシン糸のように細く鮮やかな金髪がさらさらと揺れ、うなじから覗く褐色の肌が神秘性を助長させる。

 そう、男か女か。判別が異常に難しいのだ。

 ……いっそ、性別を聞いてみるか。いや、ダメだ。前に熊川くまがわが『女子に性別聞く無神経クズ野郎は、ドラゴンスープレックスの刑に処するべき』と言っていた。つまり、イーシェが本当に女子だった場合、バッドエンド直行のバッドコミュニケーションになってしまう。せめて、あの仮面をとってくれれば、判断できると思うのだが。唯一露出している口元も、仮面のくちばしが邪魔で、横からだと良く見えない。

 その瞬間、仮面が真正面になった。

「……どうかしたのか?」

 ふわっと、どこかで嗅いだことのある、石鹸にも似た清涼感のある不思議な香りが圭太の鼻孔を掠めた。

 同年代の女子にしては低く、かと言って男子にしては高く聞こえる中性的な声音。冷たく突き放そうとも、温かく迎え入れようともなく、凪いだ水面のように透き通った静かな声。

 いつの間にかイーシェを凝視していた圭太は、何故か喋りかけられたことに驚いて、狼狽えながら返答を捻りだそうとした。

……そうだ、俺の名前言ってねーや。ホントは素顔を見せてくれって言いてーけどなぁ。仮面だって、きっと何か意味があって付けてんだろーし。やっぱ、顔には触れないでおこうそうしよう。

 しかし、僅か数秒の思考のち、口から勝手に飛び出た言葉はというと。

「あ、いや、その……か、仮面!かっこいいなそれ!あ、いや違う!俺の名前は圭太って言うんだ。巳浦圭太!よ、よろしくな!」

 結局、仮面のことが気になりすぎてしゃべっちまった!

 圭太は自分のバカさ加減に頭を抱え叫びだしたい衝動に駆られつつも、引きつった笑顔でやけっぱちに右手を差し出した。先ほど、景子にひっそりと耳打ちされていたのだ。イーシェはさる島国の金持ちの子どもで、機嫌を損ねると国際問題にも発展しかねないから何分丁重にもてなして欲しいと、一緒に家に来たイケメン職員だかにガッツリはんなり釘を刺された、と。

 何でそんな雲の上に住まうヤツが、貧乏代表選手権に立候補できる家に来たんだよ。お貴族様の華麗なる平民お遊びか?

 イーシェはというと、しばし無言のち、おずおずと右手を差し出した。

「よろしく、ケータ。かっこいいというのは誉め言葉だろうか。これは古の神の姿を模したものだ。神もお喜びになるだろう」

 圭太はほっと安堵した。イーシェは我関せずといった淡々とした口調だが、握手にも応じてくれたし、好印象であると信じよう。その手のひらが意外と骨ばっており、自分のより大きく感じて、期待値が少し下がったのは絶対に気のせいだ。

「ああ、やっぱそれ、神聖なものなんだな。まぁ、結構珍しいけど、日本でも仮面を被って歌って踊って、神に祈る祭りがあるってテレビでやってたぞ」

 会話の糸口を見つけ、ようやく気まずい沈黙トンネルを抜けたと思った矢先、イーシェは小首を傾げ黙り込んでしまった。

 ヤバい、珍しいとか言ったからか?表情が見えないから何を考えてんのか全然分からん!

 圭太は内心焦りつつ、慌てて取り繕うように捲し立てた。

「あ、でも今でもさ、町内会の小っちゃい祭りとかでも売ってんだよ。仮面つーかお面だけど。昔俺も買ってもらったわ、ピカチューのやつ。あと、ハロウィンの時とか?何か渋谷で流行ってるらしいし」

「……そうか、日本では特別な日に仮面を付けるのか。だから皆、素顔のままで……」

 圭太の思いとは裏腹に、別段気を悪くした訳でもなく、左手を顎に当て思い悩む様子のイーシェ。

「ならば私も、同じようにせねばならないか……。ケータ、やはり仮面をつけたままでは、日本で暮らす人々と同じ生活は出来ないだろうか」

 すると、願ってもないことを言い出した。

「お、おお。まぁ、嫌だったら別にとらなくても良いと思うけど、でも、ここで仮面したまんまってのは確かに珍しいし、取った方が普通かもなぁ」

 などと言いつつ、結局隠された素顔を見たいだけなので、ちょっと罪悪感に苛まされたが仕方がない。男か、女か。己の欲望に忠実な圭太にとって、今最も知り得たい情報であった。

 それを聞いたイーシェは覚悟を決めたのか、おもむろに後頭部の青い紐の結び目に手をかけた。仮面を外した瞬間、ほんの少し肌寒くもある爽やかな薫風くんぷうが金糸の髪を揺らし、そしてようやく、間近でその両の瞳と目が合った。







 


 


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