第3話 治らない病
引っ越した後にでも整理しよう――
そう思って放置していたアドレス帳で呼び出した男は、
「よお」
と、やたらと軽い印象を与える服でやって来た。
今もソレ系に悩まされていると聞いていたから、もっと、こう、悲壮感漂う可哀想なのを想像していたのに。
「……あんたさ、本っっ当に、使えるの?」
「酷い言い様だな? こちとらお前の要望に応えるために、苦手分野へわざわざ首突っ込みに来たんだぜ?」
並んでは肩を抱かれ、これを払えば「ひでぇ」と笑う。
しくじったかなぁ……
コレを部屋に入れるのは、本来なら御免だが、非常事態、仕方ないこと。
鍵を開ける際にも、口笛を吹いたり、「雰囲気あるねぇ~」と茶化したり。
こっちはマジなんですけど、そんな意味合いを含めつつ部屋へ通せば、
「うわっ、すっげぇ……」
「え、やっぱり何か」
連れてきた効果が早速? そう期待すると、
「女っぽい部屋だな……うん、好み」
何を考えているのか、じろじろ人の部屋を物色するように眺めている。
頭痛を抑えて、一応客だと茶を入れる。
「あ、俺コーラ」
……少しは遠慮しろっ!
内心で「使えない奴め」と毒づきながらも、コップへ注ぎ、勝手に陣取るテーブルへ置いてやった。
「で? どう?」
飲んだら帰れ! の勢いで半眼で聞くと、にやっと意味深な笑み。
収穫の手応えを感じさせる反応に、おっ!? と身を乗り出したなら、
「いーや、全っ然、そんな感じはねぇよ」
ああ、そうですか。
半ばがっくりと項垂れ、最後の縋るところも尽きたなぁ、と背を向ける。
途端、ぐっと腕を乱暴に引かれた。
短い悲鳴を上げて、ソファに倒れ込む。
何事かと目を開けばにやつく男の顔があった。
「な、何? 何もないんでしょ、帰っていいわよ、ありがとう!!」
「なんだよつれない。どうせ口実だろ? 家に幽霊いるかもしれないから、怖くて帰れないの、一緒に来て、なんて、可愛い手使いやがって」
待て、この、どういうつもりだ!? 問うより早く、
「俺もさ、だいぶ前からあんたのこと狙ってたんだよ。だから今日は嬉しかったぜぇ? そんな親しくもなかったのに、いきなり部屋に呼んでもらってよ」
「か、勘違いよ、勘違い!! 私そんなつもり――」
「照れるな照れるな。俺はあんたなら大歓迎だぜ。任せろ」
何一つ聞き入れず、暴れても気にしない身体。
力任せに押さえつけられ、敵わない抵抗に衣が裂ける。
「や、だ、助けて! 誰か――!!」
「まーたそんなこと言ってくれちゃって、可愛いった……ら…………?」
素肌に伸びた手が止まる。
涙に歪む視界で男を睨めば、青白く、固まっていた。
ガチガチ歯を鳴らし始める。
「な、待て、嘘だろ、おい、本当、か? だって……さっきまで何も……」
ぎこちない動きで右――男からだと左――を向く。
「ぎゃあああああ!?」
直後、男は上から飛び退くと、縋りつくように壁へ背を擦りつける。
突然の取り乱しっぷりを目の当たりにし、一時的に涙を忘れた私は、肌蹴た上着を掻き集め、乱れたスカートも整えながら、尚も男が涙目で見る先を追う。
………………………………………………………………………………何もない。
そこには床があるだけ。
埃だってありはしない。
けれど、男はずっと「許してくれ許してくれ悪気はなかったんだ」と、何か相手に懺悔し続けている。
と、男の視線が動く。
まるで何かが男の方へ近づいているかのように。
「わ、るか……ひぃっ!!」
気を失う直前の酷い動揺を抱えたまま、男は数度壁に激突しながら出て行った。
一体何だったのか。
助かった実感も大してなく、
「え……へ、部屋?」
『……大丈夫か?』
労わる声が響く。
茫然とした面持ちのまま、
「っと……アレは貴方が……?」
『…………雲行きが怪しかったから、奴を追ってきた気配を招いただけだ』
もの凄く不機嫌な声で答えが帰ってきた。
それでも「助けてくれてありがとう」と感情も籠めずに発すれば、深いため息。
続き、頭を撫でる”視線”。
『私の存在を否定したい気持ちは――悲しいが、分かる。しかし、だからといって容易くあのような者を招くものではない』
「…………うん、ごめん」
ぼたり、大粒の涙が絨毯に染みる。
慌てる気配に、謝り続け礼を続けながら、馬鹿みたいに泣いた。
そうして問題は何一つ解決せず……
いや、かなり悪化した状態で、ずるずると今に至る――
『大体お前、私というものがありながら、他の部屋を探すなど』
「もう、分かったって。テレビの音が聞こえない!」
『……普段はこんな番組見ないだろう』
確かにそうだが、毎度毎度の愚痴を、どうして大人しく聞いていられようか。
空になった皿の向こうで、画面のコメディアンが笑いを誘うのを見ては、ため息しか零れず、
「ねえ、本当、ごめんなさい。だからもう許してよ」
虚空に心底反省した風を装い、多分に媚を含ませる。
すると声は急に威力を弱めた。
『本当だな……もう、他の部屋は探すな。お前には私がいるんだから』
髪の先をくすぐる感覚。
彼氏気取りの声に、内心では苦笑しつつも、顔は真摯に、
「もちろんよ。もう探さないわ」
しれっと嘘をつく。
声はその後も何度も何度も、しつこく尋ね、その度、私は殊勝に応え――
「だーかーら!! 探さないってば、もう!」
『本っっっ当か? 本当に? そう言ってまた探す気だろ?』
「うわ、うるさっ! あんまりうるさいから、やっぱり探そうかしら!?」
『っ!! ほら見ろ、やっぱり探す気なんじゃないか! 私がいるのに!!』
悲壮な嘆きと縋りつく”視線”の感覚に、心の奥底で、深い吐息が漏れる。
だって仕方ないじゃない?
貴方の”視線”と声を受け入れてから、治らない病があるのよ。
新しい部屋を探さなくちゃ、私、ずっと病んだままだわ。
ねえ、部屋に心底”惹かれる”女なんて、病み以外の何ものでもない、でしょう?
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