第2話 曰くなし
最初は、何の変哲もない部屋だった。
引っ越して、家具も全部配置して、一人の解放感を味わう。……別れた奴との思い出溢れる部屋から脱した解放感、という訳ではない、断じて。
そうしてソファに座り、テレビの暗い画面へリモコンを向けようとして――気づいたのが全ての始まり。
自分とその上を映すテレビ画面越しに、小さな穴を見つけてしまったのだ。
大家さんから契約当初に言われていたのが、壁が薄い、という難点。
隣の部屋との間は普通だが、誰もいない端の壁が、妙な具合で薄い、らしい。
一応、前の住人などが悪戯に何か仕掛けてないか覗き込んで見たものの、機械らしい物は何もなく、業者なんかも頼ってみたが、それらしいブツは見当たらず。
だからとそのままにしておくのも、私の城に相応しくない。
思い立つなり、ホームセンターでそれらしき品を買い、自力で修復してみたなら、想像以上の綺麗な壁に仕上がった。
そのまま、手を加えた分愛着も増した部屋で暮らすこと数日。
初めての休日を寝て過ごしていた私は、妙な気配に気づく。
誰もいないのに、見られている感覚、というか……
愛おしむように、腕や背、髪に投じられる視線。
まるで、恋人に接するような労わりに満ちた、質を伴う感覚。
本当なら、恐れたり嫌がったりするべきなのだろうが、恐れるように触れては安堵する気配に、飼い主に伺いを立てる実家の犬を思い出してしまった。彼は中々どうして、凄い経歴の持ち主で、けれどよく人に懐いてはじゃれ時を心得ているらしく、良いと思ってもこんな風に、おっかなびっくり頭を差し出すのだ。
夢と現の境も手伝って、くすくす笑って身を委ねていれば、
『……恐ろしくはないのか?』
低い声に尋ねられた。
さすがに青褪めては起き上がり、立ち尽くして部屋を見渡す。
やはり、誰もいない。
空耳?――疲れてるんだ。
そう結論づけ、再度身を横たえたなら、髪を撫でる”視線”を感じる。
何なのだろう、これは?
けれど不快さもなく、また放っておけば声が響く。
『……何故、無視する?』
「だ、誰!?」
また慌てて起き上がり、今度はベッド上の壁の隅を背につけて辺りを探る。
だがやはり、誰もいない。何者の姿も見つけられない。
しかし、二度も聞こえた声だ。
気味が悪くなり身を縮めると、悲しそうな声が弱々しく問う。
『やはり、恐ろしいか?』
怯えた感覚が震える手に重なる。
「…………と、透明人間?」
そんな馬鹿な、そう思いつつも口に出した単語は、
『違う』
間を置かずに否定された。
その後も思いつくまま、
「じゃ、じゃあ幽霊!?」
『違う』
「妖怪!?」
『違う』
「宇宙人!?」
『違う』
「小西部長!?」
『違う……誰だ、それは』
「え、いや、入社前に自殺を数回図ったって七不思議の」
『それでは幽霊だろう。しかも、入社前ならお前のところに現れる理由が分からん』
「あ、それもそうか。結局生きてて他社で元気だっていうし――で?」
全部却下されればもう何も浮かばず、思い切って尋ねてみる。
そこそこ会話が成立したせいか、恐怖より好奇心の方が勝ってきた。
もちろん、怖さはしっかり残っているので、ないよりマシと御守代わりに枕なんかを抱いたなら、悲愴なため息がどこからか漏れた。
『やはり恐ろしいか、私が』
「いや、そりゃ、ねぇ……」
『別にお前に危害を加えるつもりはない。ただ――』
枕ごと抱き締める、温かな”視線”に包まれる。
『寂しいのだ。ずっと……独りでいたから』
声は自分を部屋だと名乗った。
一瞬思考が止まっては、背を預けていた壁から飛び退いて、床に降り立つ。
『……やはり恐ろしいか……』
「やー……恐ろしいっていうか、ねぇ?」
枕を抱えたまま頬を掻けば、殊更切ない声が上がった。
『……私を拒絶するのか……お前も』
「も?」
促せば座るよう言われ、大人しく座ってみせた。
逃げ出さなかったことに安堵の息がどこからか聞こえてくる。
声の言い分では、意識を得た直後、暮らしていた者に素気無く存在を拒絶されたそうな。
まあ、普通、そうだろう。
その際、投げつけられた物が壁を小さく穿ち、声の感覚の全てを奪った、らしい。
つまり、
「……私の前の住人って、全員、ずぼらだったのかしら?」
誰一人、壁の穴に気づかなかった事実に、ただただ呆れていれば、また背後からそっと、抱き締める気配。
身を捩れば耳元に声。
『恐ろしかった……感覚が取り戻されるまで、意識だけ、取り残されて……お願いだ、私を拒絶しないでくれ』
困ったことにこの声、かなり私好み。
背筋を這うようなときめきが気持ち悪くて、慌てて気配を振り払った。
「ちょっとタンマ! 待って、私、すっごい混乱してる」
どこにいるとも知れぬ、というかこの部屋自体が声の本体であるなら、どこに向けても同じと手の平を壁へ向ける。
しばし、沈黙。
私は、休日。世間は、平日。
ならば――
「よし、病院に行こう」
『何故だ?』
「いやいや、きっとこれは耳の病気か、頭の病気。もしくは精神を病んでしまったのね」
『私の存在が嘘だと?信じてくれ、私は――』
言い募る声なぞ無視して着替えを開始、はた、と止まって、
「あ、貴方には性別あるの?」
『……存在を嘘だと決め付けるくせに気になるのか?第一、私が感覚を取り戻してから幾日過ぎてると――』
「うああああああああああああ!!」
充分だ。
顔を真っ赤にしつつも、これは幻聴と言い聞かせて着替え、適当な物を見繕って部屋を後にする。
しっかり鍵はかけて。
結果・正常。
特に、精神科の医者へは幾度も、自分は本当に異常なしなのかと問えば、やっぱりダメかも、なんて当てにならない診断結果。少し考えれば、あんなに詰め寄って、己を疑ってかかる輩など、果たして正常といえたものかどうか、私も分かるだろうに。
反省しても、もう遅い。
無駄に掛かったとしか思えない診察料が、給料日前の財布を直撃して終わったのだから。
けれどあの部屋にこのままノコノコ帰る気にもなれず、目についた霊能関係の怪しい看板。
良い案を思いつく。
馬鹿高い料金には手が出せずとも、ソレ系に過敏な奴がいたのだ。
確か、肝試しに廃工場なんぞへ駆り出されたせいで、今現在もソレ系に悩まされ、付き合った彼女まで被害をこうむっているという、曰くつきのが。
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