部屋と私

かなぶん

部屋と私

第1話 『おかえり』

 人は誰しも病みを抱えて生きている、なんて、誰かが言っていたけれど。

 違う、昔はそう、思っていたけれど。

 きっと私は病んでいる。

 他の誰もが病んでいなくても。

 他の誰かが貴方は正常だと、言い聞かせても。

 絶対、私は、病んで、いるのだ――……



 一つ折れれば閑静な住宅が軒を連ねる、その少し手前。

 明るい繁華な街並みに似つかわしくない、古びた白いアパート。

 階段は剥き出しの鉄骨で、踏んで耐え切れるのかいつも心配になる錆色。

 これを上がって四つある二階の一部屋。

 一番右端が、私の住まいだ。

 大手を振って、煙草は呑まないけど、酒を呑めるようになってから借りた、それなりに女っぽい内装の、愛着が持てる一間。ベッドやキッチンが丸見えでも、突然の来客に耐えうるくらい、清潔を保っている、私の城。

 仕事帰り、たっぷり体力を消耗して後、鍵を開けて中に入る。

 気ままな一人暮らしなのだから、当然、声など聞こえるはずが――

『おかえり』

 低い声が電気の灯らない部屋から聞こえてくる。

 けれど、まともに相手をする気も起きず、締めつける靴を脱いではため息一つ。

 部屋に上がり、電灯のスイッチを押した。

 灯りが室内を照らせば、眼前中央に触り心地の良い絨毯と白い丸テーブル。奥には窓とベッドとスタンド照明、横には衣装タンス。右には背の低いソファ、左にはテレビ。入り口すぐの右にはキッチン、左にはトイレと浴室、洗濯機。

 「疲れた疲れた」ぼやきながらも、引きずるように買い物袋をキッチンの下へ置き、コートを脱いで玄関横のコート掛けへ。

 手早く部屋着に着替えて、腕まくり。

 親からの仕送りなんて昔の話。今は自炊一本。

 とはいえ、今日のメニューはあんかけ焼きそば。野菜を切って炒めるくらいの簡単なモノ。

 それでも気合を入れて作ろうとする、その背に、無言の圧力が掛かる。

『……おかえり』

 怒っているような、悲しんでいるような、低い声がもたらされた。

 もう少しだけ無視を決め込んで、冷蔵庫に物をつめていたなら、更に痛々しい”視線”が突き刺さる。

 仕方なく、ため息混じりに、

「……ただいま」

『……何故、すぐ返事をしない?』

 誰もいない室内から声が響く。もの凄く、いじけた声。

 これに沈黙を返して包丁を持ち、まな板に向かって野菜を一つ切ろうとすれば、灯りが消えた。

 頭痛がする。

「……遅くなって疲れているの。お願いだから止めて頂戴」

『…………今日は定時勤務なのに?』

 ぎくり、身体が強張った。

 なんで知っているのかと問う気持ちで、灯りを取り戻した、誰もいない部屋に視線を投じる。

 私のものではないため息が、どこからか漏れる。

『大方、また新しい物件を探していたんだろう? どうだ、良い条件のモノは見つかったか? ん?』

 皮肉たっぷりの口調に苛立ちをほんのり混ぜて語りかけてくる声に、口の端を引きつらせながらまな板へ戻り、

「いや……ほら、その……玉子、玉子がね、ちょっと遠くだと安くて――」

『ヘタな嘘は止めろ。何にせよ、その様子じゃ何も得られなかったようだしな』

 鼻で笑われた。

 観念した気分で小さく息をつき、手早く作った餡を、良い感じに焦げ目の着いた麺へかける。

 あんかけ焼そばの良い香りに笑む暇もなく、背中を這う”視線”を感じた。

「ちょっと止めて。お腹空いてるんだから!」

 抗議の声を上げれば、幾分拗ねた声が届く。

『私を無視したくせに、嘘をついたくせに、他に現を抜かしたくせに――拒絶するのか?』

「悪かったわよ」

 口を尖らせて言えば、全身を冷たく差す”視線”に曝された。

『…………拒絶、するのか?』

「だから、悪かった、ごめんなさい、もうしません!」

『何回目だと思ってるんだ……もう、いい加減諦めろ』

 長い髪を弄る”視線”と温度はないのに熱いと感じられる吐息に、ため息を呑み込みながら、あんかけ焼そばをテーブルに運ぶ。

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