中編 死刑又は無期若しくは5年以上
サービスエリアでラーメンを食べてから、車に戻り少し仮眠を取ろうとした。夏の陽は沈みかけているが西の空はまだ明るくて、筋状の雲が鮮やかな赤とピンクと紫に染まってゆく。運転席からはサービスエリアを訪れ歩く人々が夕陽に照らされるのが見えた。
営業終わりのサラリーマン、カップル、休みなのか幼児2人を連れた夫婦。自分とはもう関係のない世界の人々が赤く染まり長い影をつくる。
有給休暇を取った金曜の夜。まだなにも起きていない。なにも終わってはいない。僕はただ妻と別居して離婚したいと言われているだけでなにも問題はない。
最初に妻を殴ったときか、最初に妻が家を出て、別れを切り出されたとき。どちらかで別れるべきだったのだろう。
そしてまた「精神科で認知行動療法か、カウンセリングを受けて」と泣きながら言われ何時間も話し合ったときにそうすべきだったのだろう。客観的というか第三者的な視点からみればそれはわかる。だが僕はそうしなかった。そういう人間ではなかった。
結局、僕は泣きながら謝り妻にすがりついて、カーテンを取り換えた2LDKに戻ってきてもらった。何もかも元通り。叩き付けたマグカップが直撃したフローリングの一部だけが小さく傷ついて、表材の裏の合板を覗かせる部屋で2人は暮らし、妻は産休に入って里帰りし娘を産んで3か月でまた帰ってきた。
目を覚ますともう陽は沈んでいた。残照だけが紫色っぽく西の空の雲を照らしている。エンジンをかけ、カーナビの時計表示を見ると20分ほどしか眠れなかったようだ。サービスエリアのガソリンスタンドで車に給油をする。
「満タンで」と言ってから「ああそうだ」と思い出したように制服を着た若い店員に声をかけた。
「ガソリン携行缶に給油をお願いできますか」
そういうと、日焼けした若者はあからさまに面倒くさそうな顔つきになった。
「えーと、少々お待ちください」そう言って事務所に向かい、今度は同じ制服を着た中年の男が現れ、店長だと名乗った。
「ガソリン携行缶ですよね、どれですか?」
「これ。5リットルお願いします」と言って後部座席に置いた赤い給油缶を指差す。
「法律が変わりまして、身分証明書を確認させていただき、使用目的をこちらに記入いただけますか」
そう言ってバインダーに挟んだ書類を運転席の窓から差し込んで来る。名前と住所、農機具への給油と書いて運転免許証を渡してから、車から降りて後部座席のドアを開け、中年の店長に赤く塗られた金属缶を手渡した。
「新品ですよね、これ」渡された携行缶に視線を向けながら、店長が言った。
「そうですよ」
「お客さん、東京の人ですよね、農機具を使われるんですか?」
「妻の実家が〇〇市で農家を。ガソリン買ってきてと言われまして」
そこまで答えたところで、店長は「オイちょっと」と若い店員を呼んだ。僕は怒鳴り出しそうな自分の衝動を感じ、ホルダーに差してあるペットボトルのお茶を飲んだ。「ああこれ、給油頼む」小走りで寄ってきた若者に携行缶を渡した。
「それで新品のガソリン携行缶を東京で買って、レンタカーでここまで持って来たんですね」
「妻と娘が里帰りしていてね。それがなにか?」
いえ何もと店長は答えた。彼はガソリン携行缶取扱い上の注意を無表情で説明したあとで、同じことが書いてある注意事項を記したチラシを寄越した。トランクルームにガソリンの入った携行缶を置いてもらい、クレジットカードと免許証を返してもらって僕は彼に怒鳴り出さずに済んだ。
ガソリンスタンドを出て東北自動車道を走らせながら、さっきの中年の店長とのやり取りを思い出しながら、絶叫した。「カンケーねえだろ」「殺してやる」とかそんな言葉。
前回「殺してやる」と言ったのは妻にだった。そのときも今みたいに車の中で一人になってから叫べばよかったのに。叫んで少したって落ち着けば、それくらいはわかる。だからなんだという話。
里帰りして妻は3,100gの娘を産んで、僕は連絡を受けて始発の電車に乗って新幹線で向かい、出産に立ち会った。娘は僕に似ていた。正確には幼いころの僕に似ていた。
「この人は自分だ」という抑えがたい感情がとめどなく湧いて、里帰り中の妻の実家には新幹線で何度も通った。3か月して、また僕は新幹線で彼女の実家へ行き、3人で帰ってきた。2LDKで娘を含め3人の暮らしが始まった。
新生活は4か月で破綻した。娘と3人で出かけたとある日、妻が外を歩きながら何度もスマホをいじっているのが気になった。指摘すると「授乳とかでまとまった時間が取れないからさ、スマホゲームしてる」と彼女は答えた。
「出かけてる今やらなくてもいいじゃん」と言うと、彼女は「そうだね」と答えたが、そのままスマホをいじる頻度は変わらなかった。
家に帰って、玄関ドアを閉じ、靴を履いたまま抱っこ紐を外して娘を一時的に床におろした瞬間、怒りが発作的にこみ上げてきて、僕は妻のみぞおちを殴った。そのまま髪の毛をつかみ、むしるように引き下ろすと、彼女は這いつくばるように玄関ドアの前に倒れ込んだ。狭い玄関で傘立てに彼女の体が当たって、音を立てて傘立ても倒れた。
「俺にスマホばっか見んなって何回言わせんだよ」と言って、うつ伏せに倒れている妻の左頬から後頭部にかけてをその日履いていたスニーカーのまま踏んずけた。
「おい聞いてんのかクソ女。殺すぞ」
妻は靴の下で小さな悲鳴を上げていた。僕は靴をどかしてから彼女の後頭部に勢いよく唾を吐いた。靴を脱ぎ、泣いている娘をまたいで寝室に行った。
そうして、すべてが終わった。
後編に続く
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