死刑又は無期若しくは5年以上

えりぞ

前編 死刑又は無期若しくは5年以上

 妻を最初に殴ったのはたしか結婚した翌年で、僕は29歳、彼女は27歳だった。僕らはそのころ共働きで、ふたりとも都内で仕事をしていた。言っておくが僕は彼女を骨が折れたり、病院に行くほどの怪我をさせたことはない。


 出会ったのは紹介ということになるんだろうか。僕も妻も勤め先は同じ業界。どちらもサッカーや野球など、休日に集まって運動する社内の部活があり、たいした強さじゃないけれど、業界団体のリーグ戦や大会みたいなものがあった。ちょっと古い日本企業って感じだろう。若手社員は運動部経験がなくても勧誘されたり、応援に駆り出されたりする。


 その日はサッカー部の親善フットサル試合だとかで、僕は先輩から応援兼飲み会要員みたいな形で来いと言われた。ほんのちょっとプレーして、そのあとの飲み会は試合相手の会社と合同だった。


 そこに妻がいた。少しだけ話して、ちょっと可愛い子だなって。その時はそれだけの話。積極的な若手の男性社員が連絡先を何人かと交換して、後日また若手で飲もうとなって、僕も呼ばれ、出た。妻も同じような感じで、たしか8人で飲み会という名の合コンをしたわけだ。それでまあ、互いの連絡先を交換したりデートしたりして付き合うことになった。僕は27歳、妻は25歳だった。


 どこにでも、ざらにある話。もう5年も前の話だ。



「ノンオペレーションチャージ補償はつけますか?」

「え?」

 32歳になっていた僕はレンタカー店でカウンター越しに質問してきた高齢の男性店員の言葉が聞き取れなくって聞き直した。事故で自走できないほど壊した場合など、対人対物の保険には入っているが、営業補償として5万円支払わなければいけないが、補償金として千円ちょっと払えば免責されるという。


「お願いします」

 そう答えて必要書類に記入し、案内されて1300ccだというコンパクトカーに乗り込んだ。

 金曜に有給休暇を取って3連休にした7月の昼下がり。車内はさっきクーラーをつけてくれたのだろうが熱がこもっていて、僕は羽織っていた半そでのシャツを脱いでTシャツ一枚になる。シャツはさっき後部座席に放り込んだ大型のボストンバッグへ畳んで入れた。


「返却先の〇〇駅近くの営業所はナビに登録してありますので、このボタンで」と、開いている運転席の窓に顔を寄せて、60歳をこえているだろう男性店員は言った。

「それは?」

 そのまま、彼は後部座席に置いた大きめのショルダーバッグから覗いている赤く塗られた金属製の10ℓタンクを指差した。

「ガソリン携行缶です」

「座席では安定しません。座席の下やトランクにおいてください」

「ああ、もちろん空なんで。入っていたら重くて持って歩いて来れないですよ」

「長距離のドライブだとは思いますが、ガソリン携行缶からの給油は止めた方がいいですよ」

 考えてみればガソリン携行缶に限らず、荷物は家に置いておき、車を借りてから取りに戻ったほうが良かった。自分では自覚していないけれど、もうあまり冷静じゃないのだろう。

「いや、この車には給油しないんで。妻の実家で農機具に給油するだけだよ」


 バイパスに乗って東京方面に向かう。同じ道を妻を乗せ走った日を思い出す。あれはたしか、箱根旅行の次の日だったか。夜、彼女が当時住んでいた都内のアパートまで送って行った。11月の後半で、途中お台場に寄ると気の早いクリスマスツリーが青と白のLEDを光らせていた。今は真っ昼間で、なにもかも眩しい。


 カーナビに表示される分岐を慎重に確認しながら、首都高を走り東北道を北上した。東北の田舎にある妻の実家に初めて行ったのは付き合って二年後の夏で、「結婚しようと思います」と言いに行ったのだ。

 休憩と車への給油のため東北道のサービスエリアに入る。時計を見ると18時をまわっていた。夏の夕べはまだ明るい。金曜だからか、家族連れや夫婦、カップルも目立って、自分はひとりなのだと、もう永久にひとりなのだと、腹の底からゆっくりと理解がこみ上げてくる。さようならだ。


 昔からニコニコしてるのにカッとなりやすい性格だとは言われていた。ただそれが、こういうことになるとは思っていなかっただけだ。

 結婚した翌年、妻は法人向けの営業をしていた。忙しい忙しいといつも言うので、同業で同じ営業だからとちょっとしたアドバイスをしていた。ある日、「ちょっと困った」って彼女が切り出した。


「交通費の清算さ、うち事後清算なんだけど」

その日は日曜で、2人で映画でも観ようかって出かける直前だった。2LDKの廊下で彼女は軽く言った。

「俺の会社もそうだよ。経費システムに電車賃とか入力する」

「そうそう。規定だと毎月やることになってるんだけど、けっこうみんな破ってて、3か月くらい溜めちゃってるのね」


でさ、と妻は間をおいて

「なんか忙しくて、わたし、いつの間にか半年くらい溜めちゃって、上司に言ったら、『承認できない』って言われちゃって。損しちゃった」

「いくらくらい?」

「よくわかんないけど6万くらいかな?」


 そう聞いて僕は右手に拳をつくり彼女のみぞおちを殴った。べつに思い切りじゃなかったが、彼女はよろけて廊下にしゃがみこみ、うつむいて小さなうめき声をあげていた。

「ふざけるなよ、このクソ女が」

「てめえひとりの金じゃねえだろ。なんとかしろ」


 そう言ってから一瞬我に返って「まずいな」と思ったが怒りが治まらず、カバンを放り出して僕は寝室に行った。ベッドに腰かけて「まずいな」「どう謝るか」を考えてから、しばらくして僕は廊下へ出た。


 妻はそのままうずくまって泣いていた。僕はひざまずいた。

「ごめんね、〇〇ちゃん……」と謝った。平身低頭、誠心誠意謝罪した。もう二度としないという約束、なんであんなことをしたのかわからないということ、最近仕事でストレスがたまっていたこと、いろいろ理由をならべ謝罪した。


 その日の映画は無しになって、妻は「わたしも悪かったけど」といって許してもらえた。まあ結局、それからしばらくは妻をぶん殴ったりはしなかったわけだ。

 ただその一年後、もう妻は妊娠していたが、日曜の夜、2人で紅茶を淹れ、飲んでいるときに「食器洗いとか、家事をもう少し手伝ったら?」と言われた。

 

 僕は無言で立ち上がり、持っていた紅茶のマグカップを床に叩き付けた。マグカップだった破片とミルク入りの紅茶は飛び散り、フローリングにちいさな傷がついた。


 妻は立ち上がって涙を流しながら「やめて」「やめてよ」と繰り返し言った。僕は「うるせえよクソ女」と言って、寝室に行って、そのまま寝た。

 翌朝、リビングに出ていくと破片になったマグカップと紅茶は片付けられて、フローリングに小さな、しかし明らかな傷とカーテンに飛び散った紅茶の染みだけが残っていた。


 妻はいなかった。2LDKのどこにも。


中編に続く

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