7
次の日。僕は朝から仕事終わりの事で頭は一杯だった。
「蒼汰~この後」
「ごめん。今日は無理」
まだ呑み会の誘いかは分からなかったど、翔琉の呼びかけに僕はすぐさま断りをいれてしまう程に。
「そうか。じゃあまた今度だな」
「うん。ごめん」
そう言って黙々と仕事に取り組んでいた僕は、時間が来るとまるでロボットのように残りの仕事を持ち帰り会社を後にした。
そんな僕は、当然ながら陽咲に会う為あの場所へ。気分の所為か何だか今日は微かに肌を撫でる風も含め、この場所に清々しさを感じる。僕は欄干の前で大きく手を広げては、昨日とは違った深呼吸をひとつ。
肺を満たす新鮮な空気。その中に微かに混じった香り。
僕は両手を下ろしながら隣を向いた。
「お仕事お疲れ様」
着物に狐面。相変わらずの陽咲がそこにはいた。
「ありがとう」
クルりと体を回転させ、陽咲は夕焼け空を見上げた。
「最後だね。今日で」
そう呟く声は悲し気で寂しそうで。その気持ちが分かる分、僕の胸へ突き刺さるように響いた。
でもそれが一番だってことは、今なら分かる。どうやってでも一緒にいようとした最初の時とは違って。
「うん」
陽咲の隣で同じように空を見上げた僕の唸るような返事の後、流れた沈黙は既に切なく別れを実感させた。
どれくらい黙っていたのかは分からない。けど、少なくとも目の前の雲が動いていると分かるぐらいには、二人して黙ったままだった。
すると、陽咲はまたクルりと体を軽快に回転させては僕の方を向く。
「最後だけど、折角こうして会ってるんだから楽しくいこうよ」
さっきとは打って変わりその声は一段と明るくなっていた。
陽咲らしい。そんな事を思いながら緩んだ口が自然と微笑む。
「そうだね。――でもどうしようか?」
「んーっと」
口元に指を当てながら考える陽咲。
「じゃあ、どうやったら君に新しい奥さんが見つかるかについて」
どうやら思い付いたのは僕を揶揄う為のものだったらしい。
「えぇー?」
「冗談だってば。それはもういいよ。今はね。でもこれだけは覚えておいて、別に私の事を気にする必要はないから。君がこの人とならもう一度、って思えるような人と出会ったらその時はしてね。私が強制する事でも、私に遠慮する事でも無い。これは君の気持ち次第なんだから」
「分かったよ。ありがとう」
でもやっぱり新しい誰かを見つけるとかそういうのは、今はいいのかも。陽咲との出会いがそうだったように。突然的に、偶然的に、運命的に――もし出会えたのなら。そんな感じでいい。
少なくとも今はそう思っている。
「あっ、そうだ。そう言えばあの漫画ってどうなったの? もう終わった?」
そう声を上げて訊いてきたのは、生前に彼女が僕と一緒にハマって読んでいた漫画の事だった。
「あぁ。あれね。うん。もう完結したよ」
「えぇー! ねぇねぇ! どうなったのあの後」
「何巻まで読んでたっけ?」
それから僕らは最後だっていうのに他愛もない話をしていた。仕事から帰りゆっくりとした夜、休日の穏やかな昼、ソファに寄り添って座りながらするような何てことない話。
でもこれでいい。特別な何かなんて必要ない。ありふれた日常の一部でさえも君と一緒に笑い合えてるのなら、それは僕にとって最高の瞬間なんだから。
家のソファに僕が居て、隣には君が居て、寄り添い合って、笑い合って、触れ合って。何も必要ない。着飾った服も、最高級の料理も、アトラクションも――何も要らない。寝ぐせの頭で寝間着のまま、昨日の残りでも食べよう。ふざけ合って一緒に音楽でも聴いて――ただ君と笑い合えてればいい。抱き締めて、頬に触れて、キスして。
君と一緒なら特別なんて必要ない。
君と一緒ならそんな何気ない日常でさえ特別になるんだから。
そんな日々がずっと続くと思ってた。
でも突然あんな事が起きて。気が付けばもう君は僕の隣から消えてしまっていた。
そしてまた僕の目の前に現れた君。最初は嬉しくて、もう二度と手放さないなんて思ってたはずなのに……。
何も要らないなんて思いながらも、結局僕には必要なものだらけだったんだ。どんな絶景にだって勝る君の多彩な表情も、時に妖艶で時に子どもっぽい視線とその美しい瞳も、肌から伝わる心地好い温もりも、心安らぐ匂いだって……。僕には必要だ。
僕には君の全てが必要で――僕は君の全てを愛してる。
そして何より僕はずっと君と居たい。こんなちょっとの時間だけじゃなくて一晩中、一日中、一年中――ずっと一緒にいたい。
でもやっぱりそれはあの瞬間からもう――叶わないらしい。
「そろそろだね」
辺りはすっかり暗くなり始め、陽咲は静かに呟いた。
申し訳なさそうに沈んでいく夕日はもう殆ど見えない。
もう決めた事のはずなのに今になって「やっぱり」なんて言ってしまいそうになる。でも僕も耐えられそうにない。これ以上、君を目の前に手を握る事のひとつも出来ないなんて……。
どの道、辛いけど。前に進むのにはこれが一番なのかもしれない。
「うん」
「ごめんね。色々と」
色々と。多分、陽咲はこうして目の前に現れた事を後悔してるんだろう。そして僕の為にとやった事も。
でもそんな事はない。結果的にはこうなってしまったけど、君が謝る必要はない。
「――ありがとう」
微かに聞こえた君の笑う声は安堵交じりだった。
「ねぇ。目瞑って」
「目? 何で?」
「いいから」
「分かった」
突然そんな事を言われた僕は小首を傾げながらも言われるがまま目を瞑った。
「こっち向いて」
暗闇の中、聞こえる声に従って体も陽咲の方へ。
「やっぱりこうしてるのは、君の為って言っておきながら本当は自分の為だったのかも。でも君の隣に新しい人がいて、君が幸せそうにしてるのを見て安心したいんじゃない」
静かに話し始めた彼女の声が少しずつ近づいて来るのが分かる。
「多分、私も君と同じ。――会いたかった。もう一度。あんな風に別れちゃって、寂しくて、心残りで……。だからもう一度だけでも、会いたかった」
時折、微かに潤む彼女の声はもうすぐそこ。
「でも、君の言った通り。辛いね。こんなにも近くにいるのに、君に触れる事も、抱き締めて貰う事も出来ないなんて。――だから、分かるよ。その苦しみも、その恋しさも」
言われてみればそうだ。触れられないのは僕だけじゃない。抱き合えないのは僕だけじゃない。
それを耐えるしかないのは僕だけじゃないんだ。陽咲も同じように思いながら耐えてる。なのに僕は……。
「そうだよね。ごめん。自分ばっか我慢してるみたいな言い方して」
「ううん。でも実際、君の方が辛いと思う。だから間違ってないよ」
コトン。陽咲の言葉の後、何がか落ちる音がした。こんな状況で気に留めるような事でも無い小さな音。でも目を閉じて聴覚が敏感になっている所為か、そんな音が聞こえた。
「目、開けていいよ」
そう言われ、僕はゆっくりと目を開いた。声の位置から陽咲がすぐ目の前にいる事は分かってた。
だけど僕は半分ほどまで開けた目を一気に開くと、堪えようのない泪が溢れ出すのを感じた。
「これで本当に最後だね」
そこには狐面を外し、泪で目を潤ませながらも笑みを浮かべる陽咲がいた。毎日、写真や動画で見ているはずなのに久しぶりに感じる陽咲の顔。ずっと願ってた。その狐面の向こうでどんな表情を浮かべているのか。
その視線に見つめられたかった。
「陽咲……」
絞り出すような声で彼女の名前を呼びながら僕は一歩前へ。同時に彼女も一歩。
僕らは自然と入った力で強く、強く抱き締め合った。彼女を包み込み感じる温もりも、頬と触れ合う首筋の肌も、背中に触れる感覚も、息をする度に感じる匂いも。全てが愛しい。
このままずっとこうしていたい。そう思いながらも彼女の力が弱まり離れようとするのに従い、僕も腕の力を弱めた。少しだけ離れ、でもお互いに手は回したまま。
そして体を撫でるように陽咲は手を首へと回した。互いに頬を泪に濡らしながらも溢れ出す愛情で解された口元。鼻先が先に触れ合いそうな程に僕らは顔を近づけていた。
「愛してる」
「私も。愛してるよ」
この気持ちを言わずにはいられない。そんな言葉の後、一瞬の静寂が僕らを包み込む。焦らすように――それでいて互いを見つめる視線が先に絡み、愛し合う。
そして手繰り寄せるように近づき――僕らは口付けを交わした。懐かしくも触れ合う唇はまるで愛を確かめ、愛を味わうようかのうに。言葉以上に愛を伝えては語り合った。微かにする泪の味はどっちのものなんだろうか。
でも今だけは全てを忘れただ――君だけを感じていた。
でも名残惜しさの中、君はゆっくりと離れていく。
「君と会えて良かった。君に愛して貰えて良かった。君を愛せて良かった」
震える声と共に感じる息。時折、鼻が触れ合う。
「君が居ないなんて僕……」
「大丈夫。私はいつでも君の傍に居る。大丈夫だから」
そっと彼女の手が胸に触れる。
「私は大切な君が幸せになる事を何よりも願ってる」
僕が返事をするより先にまた唇が触れ合う。抱き締める腕はより強く、交わす愛はより濃く。
でも段々と腕の中で薄れゆく彼女の体。
それを感じながらも最後のその瞬間まで――僕らは抱き締め合う力を緩めはしなかった。まるで抵抗でもするように強く。まるで体へこの感覚を刻み込むように力強く。
だけどそんな僕らには気にも留めず、その瞬間は無情にも訪れる。一秒の狂いも無く正確に。気が付けば抱き締める感覚はあれど、自分の手が透けて見える。
これで最後なんだ。僕はそう思った。
「――愛してるよ。蒼汰」
微かに触れる唇を感じながら陽咲は最後にそんな言葉を残してくれた。
完全に彼女の姿が見えなくなると、抱き締める力の分一瞬だけ自分の方へ空振る腕。
温もり、匂い、感触。まだ陽咲を残しながらも、もうそこに彼女はいなかった。段々と薄れていく匂い、冷めていく温もり、消えていく感触。それはどこか彼女が幻となって消えてしまうようでもあった。まるでここで過ごした彼女との時間が全て無かったかのような。彼女の言葉が全て消えてしまうような気さえした。
でも僕にはどうする事も出来ない。
そんな感覚に思わず顔を俯かせると、僕はそこに落ちていたある物に気が付いた。少しだけ前へ進みそれを拾い上げる。
それは狐面。彼女がずっと付けていたあの狐面だった。
雨粒のように泪を狐面へと降らせながら微かに口元を緩める。
そしてそれを抱き締めるとほんのり夕日色を残した空を見上げた。拭い切れぬ泪を流しながら最後の言葉を思い出す。
「僕も愛してるよ。陽咲」
狐の暇乞い 佐武ろく @satake_roku
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