6
翌朝は気が付けば訪れていた。ベッドで目覚めた僕は、昨夜の事を断片的にしか覚えておらず見事な二日酔いが歓迎してくれていた。
時刻は昼より少し前。気分は最悪だけど、今日が休みなのがせめてもの救いだ。
「はぁー」
溜息と共に顔を拭う手。
そしてまだ覚束ない視界のまま、隣へと顔を転がした。
そこには――誰もいない。あの日からずっと。君はいない。
僕はそのまま寝返りを打つと、手を伸ばし皺の無い枕をそっと撫でた。人一人分の空白。温もりさえない悲しい感触が掌から体へと入り込む。
「はぁー」
また溜息を零し、僕はベッドを出た。
寝室を出るとリビングには昨夜の記憶が無数に放置され、その隣のソファーではブランケットに包まりながら今でもぐっすりと眠る空さんの姿が。
起こさぬよう足音に気を付け僕はそのまま近くを通り過ぎて行った。
その日は昼過ぎに空さんと出前でご飯を食べ、少しお腹を休めてから彼女は帰宅。僕はまだ万全とは言い難い体調に説得され、夕方まで殆どをベッドの上で過ごした。
オレンジ色の空。静かな石段に響く足音はテンポ良く。足を止めた僕の目の前に伸びる一本の道。
一度深呼吸をしてから、僕はこれまでとは違って見えるその道へと足を踏み入れた。
いつもより遅い時間帯に来たけど、そこに人影はない。辺りを見渡してもそれは同じで、僕は古びた建物へと向かった。(外から)中を覗き込んでみたり、建物の陰を確認してみたり。
でもどこにも陽咲の姿は無い。
仕方なく欄干へ近づくと両腕を乗せ凭れかかり、もしかしたらを期待しながらただ夕日を眺めていた。ただただじっと。時折カラスの鳴声が響き渡る静けさの中で、ずっと待っていた。
だけど何時しか夕日は顔を埋め空は夜に染まり始める。
僕はそんな景色に背を向けると誰もいない辺りを一度見渡した。
「聞こえてるか分からないけど、また明日も来るから良かったら話、したいな。でももし、僕の事を嫌いになっちゃったり、もう会いたくないって思ってるんだったら無理しなくていいよ。――じゃあまた明日ね」
もしかしたらそれはただの独り言かもしれない。それでも僕は言葉を口にして家へと帰った。
そして次の日も言葉にした通りあの場所へ。
だけどその日も陽咲は姿を現してくれなかった。
その次の日も。そのまた次も。彼女は現れなかった。
あれが陽咲との最後の記憶のまま、もう二度と会う事は叶わないのかもしれない。そんな覚悟とも言える思いを胸にこの日も僕は一人あの場所を後にした。
そしてその日も僕は夕日に焼かれながらその場所に居た。正直なところ半ば諦めながら。
ただ一人欄干に凭れ、徒に時間だけが過ぎていく。いや、もしかしたら今日こそは彼女が来てくれるかもしれない――そんな期待を胸に抱いていた時点で無駄ではなかったのかもしれない。
でもそんな僕の思いとは裏腹に夕日は最果ての線と触れ合う。
それは微かな音だった。隣で小石を踏む音が聞こえた僕は、気の所為かと思いながらもそこを見遣る。
正直に言って内心では一驚に喫していた。
でもまるでそれが分かっていたかのように平然としながら、僕はゆっくりと遅れて体を向ける。
「久しぶり。って言うのかな? ――また会ってくれてありがとう。陽咲」
顔を俯かせ前で気まずそうに手を組んだ彼女がそこには立っていた。
でも返事は無くただ俯いたまま。
「陽咲。あのと――」
だから先に謝ろうとした。あの時の事を。
「ごめん!」
でも陽咲は僕の言葉を大きく遮り、先に頭を下げながら一言そう謝った。彼女が謝る必要なんてないのに……。
あの時した自分の言葉が、今の陽咲にこうして謝らせている。そう思うと胸に刺さった棘がズキリと痛んだ。
「ううん。悪いのは僕だよ。あんな風に酷い事言っちゃって……。陽咲は僕の事を思ってくれてたのに。なのに僕は自分の事ばっかで。だから――」
「違うの!」
ごめん、そう言おうとしたけど半歩前へ出ながら彼女にまたもや遮られてしまった。今度は僕の顔を見ながら彼女は続ける。
「多分、そうじゃない。本当は私もそのつもりだった。君の為にって……。でもあの時言われて、強く否定できない自分がいたの。君の言ってた事は正しいのかもしれない。君の為って言っておきながら本当は自分の為だったのかも。――だって私……」
そしてまた俯いた顔。
「凄く不安だった。君は私の事を愛してくれるし、優しくて、一途だから。――だからあんな風に私がいなくなって……不安だった。悲しみに暮れる君を想像するだけで胸が苦しくて……」
今にも泣き出しそうな声で陽咲は自分の胸にやった手を力強く握りしめた。心の代わりに着物を握る手はまるで彼女の苦しみや不安を再現するように強く、強く。
「だからまた君が笑えるようにって。幸せにいられるようにって。――でも違かったのかも。本当はこんな気持ちから逃れたかっただけなのかもしれない。自分が楽になりたかっただけなのかも。君の為なんて尤もらしい理由でさ。一番大切な君の気持ちを無視してたのに、何言ってるんだろう」
最後に陽咲は自分を嘲笑するかのように軽く笑って見せた。
そしてまたゆっくりと顔を上がっては僕を見つめる。
「だから――ごめんね。こんな風に二度も君を傷付けて」
陽咲の話を聞きながら僕はどこかホッとしていた。一番はやっぱり、彼女に嫌われてないという事に。そして何だか付き合ってからずっと変わらない陽咲に。
同時に僕らのルールを思い出した。付き合った時からの変わらないルール。喧嘩したら二人が落ち着くまで一旦距離を置く。それから改めて話し合いをするけど、ちゃんと相手の話を最後まで聞く事。僕も彼女もつい遮っちゃう時もあったけど、その時は気が付いた相手が聞いてあげるのが暗黙のルールだ。
「それじゃあ、次いいかな? 二回も君に遮られちゃったから」
僕がそう言うとつい夢中になって謝ろうとしていたことに気が付いたのだろう、陽咲は吹き出すように静かに笑った。
「ごめん。どうぞ」
「僕も自分の事で一杯一杯になっちゃって君の気持ちを考えられてなかった。それに勢いに呑まれてあんな酷い事まで言っちゃってさ。大丈夫、分かってるよ。君が誰よりも僕の事を想って提案してくれたって。――君はいつだって僕の事を想ってくれてた。僕を愛してくれてた。いつだって僕に合わせてくれたし、忙しくて寂しい思いをさせてた時期だって文句ひとつ言わずいつも笑っては僕を気遣ってくれて。……なのに僕は、あんな風に言っちゃってさ。自分の辛い気持ちを君の所為にしてしまって。本当に情けないよ。――だから。僕の方こそごめん」
「ううん。君が辛いのはそうだよ。私の事を誰よりも一番に考えてくれて、愛してくれてたんだもん。そんな私が突然死んじゃったかと思えば、こんな風に現れてさ。でもただ話すだけなんて……。私なら耐えられないよ。こんな……。飢えた人の目の前にご馳走を置いて食べるな、なんて言うような事」
「でも最初は本当に救われたような気持だった。また君に会えるだけでも」
本当はまだ言いたいと事はあった。君は悪くないって。
でも時間はそれを許してはくれない。
段々と薄れだす彼女の体。僕らは揃って夕日を見た。
そしてもう一度、互いへと視線を合わせる。
「これで終わりじゃないよね?」
「うん。でも私が伝えたい事は伝えたから……次で最後にしよう」
本当は嫌だけど……。
「また明日」
「そうだね。また明日」
その言葉を最後に彼女は消えてしまった。
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