case7.田辺由依子の罪〜人に甘く、自分にはとびっきり甘く〜
何事も飴と鞭のバランスが大事みたい。アメだけでは依存体質のダメ人間になっちゃうし、ムチだけでは自己肯定感だだ下がりの卑屈人間になるんだって。知らないけど。
だけどあたしはアメだけが欲しい。しかもとびっきり甘いの。あたし以外の人が食べたら吐いちゃうぐらい、あまーいの。
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昔から、「あんたはどんくさい」と言われ続けてきた。言われるたびに、そうかなー?そうなのかなー?って思うんだけど、今のこの状況はたしかに"どんくさい"と思う。
「あーん、ほんとどうしよー、ごめんなさいぃ」
あ、思い出した。あと、「あんたのは本気の謝罪に聞こえない」とも言われるんだ。そんなこと言われても困る。本気の本気で謝ってるんだけどなぁ。
「大丈夫ですよ。私も避けられなかったですし」
わ、男の人で自分のこと"わたし"って呼ぶ人初めて見たぁ!ほんとにいるんだ。
……って、ダメダメ。今はそれより、この人のマフラーと絡まってしまったあたしの髪をなんとかしなきゃいけないんだ。
目の前を横切った猫に気を取られて、前を見ていなかったのはあたしなんだもん。これはあたしの髪を切らないとかなぁ……ハサミないし引きちぎったらいいのかなぁ?
「動かないでくださいね」
あたしが一人悩んでいると、その男の人はカバンの中から裁縫セットを取り出し、その中の小さなハサミで自分のマフラーを切ったのだ。
……えっ!!!わぁ、なんでー?そのマフラー、絶対高いやつじゃん。ブランド物に疎いあたしでも知ってる、有名すぎる高級ブランド。その人はそれになんのためらいもなくハサミを入れた。
「えー、やだー!なんで切るの?あたしが悪いのに」
「人の髪を切るより替えがきく物を切りますよ、そりゃあ。それにこれぐらいの傷みならまだ使えますよ」
あたしの非難めいた声を受けて、その人は当然だと言うように爽やかに笑う。
「かっこいい……」
「え?」
「好きです!あたし、あなたと付き合いたい」
昔から、「あなたの良いところは行動力ね」と言われてきたし、それを本気にしてきた。だけど、それって、向こう見ず、思慮が浅いってことらしい。
「え?私と?」
「はいっ!だめですか?あたしじゃ」
「駄目というか……。いや、うん。これも何かの縁ですし、私でよければお願いします」
何がどうなったのか分からないけど、付き合えてしまった。あたしの人生、きっとこれ以上にラッキーなことってないと思う。なんでも言ってみるもんだなぁ。
ためらいもなく高級マフラーを切ったその人は、「福山千歳です」と名乗った。
「ちとせさん……」
「はい。……ふふ、付き合った後に自己紹介をするなんて、初めてです。あなたは?」
「あ、あたしも初めてです!」
「……いえ、お名前は?」
「あ、ごめんなさい。田辺由依子です」
……恥ずかしい。またどんくさいことをやってしまった。照れながら名前を言ったあたしに、ちとせさんは「ゆいこさん」と目を細めた。……かっこいい。大人だぁ……。
そんな運命的な出会いから少し、あたしとちとせさんは順調だった。あたしは優しいちとせさんのことをどんどん好きになっていった。
ちとせさんはあたしが待ち合わせに遅刻しても、食事のときに食べ物をこぼしても、なにもないところで何度転けても怒らないし、呆れない。「由依子ちゃんはかわいいね」と優しく笑って許してくれる。はぁ、ほんと好き。だいすき。ちとせさんもそうだったらいいのに。
「ちとせさん、次はいつ会えますか?」
「うーん、仕事が忙しくなりそうなんだよね」
「えー、寂しい……」
「私も寂しいよ」
ちとせさんの広い背中に頬を寄せて、あたしが不満を漏らせば、ちとせさんが「そうだ。じゃあ、いつでも会えるように私と一緒に住もうか」と嬉しすぎる提案をしてくれた。
「え!うれしい!やったぁ!ちとせさんだーいすき」
「私も由依子ちゃんが大好きだよ。そうだ、仕事も辞めちゃいな。そしたらもっと一緒にいられるよ」
「うん!やめる!少しでも長くちとせさんといたい」
他人に言わせれば、こういうところがダメらしい。だけどいいの。あたしにはちとせさんが全て。だから、ちとせさんが白いと言えばカラスも白いし、太陽は昇らないと言えばずーっとずーっと夜なのだ。
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「じゃあ、行ってくるね。いい子にしてるんだよ」
「うんっ!ね、今日は何時ごろになる?」
「そうだなぁ、遅くはならないと思うんだけど。夕飯は外で食べようか。ついでに買い物もしよう。好きなもの買ってあげる」
ちとせさんはあたしが一人で外出することを嫌がった。それを束縛と捉えて耐えられない人もいるんだろうけど、あたしは全然平気。仕事も辞めて、友達や親の連絡先を消して、外界との関わりがほぼなくなっても。あたしは全然平気。だって、あたしにはちとせさんがいるんだもん。
「んっ、あぁっ、ちとせさぁん……すき、すき。もっと、もっと、ちゅーして」
「ふふ、由依子ちゃんはほんとーにかわいいね。いい子。私だけのかわいい子」
ちとせさんはえっちもすごく上手。ちとせさんから与えられる快楽に、あたしは身を委ねていればいいのだ。頭のてっぺんから足の先まで。毎回ぐずぐずに溶かされて、あたしは自分自身を失う。
今まで何をしてきたのか、何を得て何を失ったのか。もうどうでもよくなる。過去も未来もいらない。なんならイマもいらない。
ちとせさんだけ。ちとせさんだけがいてくれたらそれでいい。
「じゃあ、行ってくるね。今日もいい子でね」
「……うん、」
「どうしたの?寂しくなったのかな?」
「……ううん。ねぇ、ちとせさんのお仕事ってなーに?」
あたしの質問にちとせさんの整った眉が下がる。基本的に自分のことを話すのが苦手なちとせさんだけれど、それすらも教えてくれないのだ。ま、仕事なんてなんでもいいか、と思っていたけれど、ここのところ帰りが遅い。不安になれば教えてくれないことに不満が出てきた。
「うーん……まぁ、そろそろいいか。明日教えてあげるね」
明日かぁ……。不満げに尖らせたあたしの口に、ちとせさんは甘いキスをした。
「あっん、ん、ね、なんで、おしえてくれるん、じゃ、ああっ……!」
なんの仕事をしているか教えてくれるはずだった今日。ちとせさんには約束を守ろうとする気持ちがあるのか、ないのか。それすらも分からないまま、あたしは朝から抱き潰されていた。
「もうすぐ、もうすぐだよ」
なにが?もうすぐ?だめだ、なにも考えられない。頭が真っ白になって、目の前がチカチカする。いっちゃう……。
「んっ、だめ、イク、イクっ、あぁっ」
「アニキ、お楽しみのとこ失礼します!」
ノックとほぼ同時に急に開いた扉。だけど、イクのは急に止められない。知らない男の人の前ではしたなく気をやってしまった……。え、この人誰なんだろう?
まだぼぅっとする頭では考えたくても考えられない。そんなあたしを見て、ちとせさんはくすりと笑う。ちとせさんもあたしと同時にイッたはずなのに、至って冷静で普段通りだ。
「あぁ、わざわざ悪かったね。紹介するよ、私のかわいい子」
「ちわっす!アニキにはいつもお世話になっております」
「あ、はい……こちらこそ?」
「ふふふ。由依子ちゃんはほんとに……この子は私の弟分だよ」
「え?ちとせさん、弟さんがいたんですか?」
「あっはっは。そうだね、うん。私はお兄さんなんだよ」
何が面白いのか、ちとせさんは声を上げて笑った。ん?あたし、弟さんに裸見られて、あまつさえ、い、いってるとこ見られたってこと?えーーーー!?そんなん死ねるんだけど……!
焦ってパニックになっているあたしを尻目に、ちとせさんは服を脱ぎ出した。え?とあたしの目が驚きに開く。ちとせさんは今まで、一緒にお風呂はおろか着替えすらもあたしの前ではしなかった。それだけじゃなくて、えっち中も上の服は絶対に脱がなかったのに。今日だけで付き合ってから気になっていたことが一つ二つと明らかになってゆく。
「そ、それ……」
「あぁ、これね。すごく綺麗でしょ?」
ちとせさんの広い背中に一面、でかでかと彫られたそれは沢山の色を使って仕上げられていた。
「初めて見ました」
「ふふ。だろうね」
「アニキ、そろそろ時間が……」
「あぁ、分かってるよ」
……!アニキって、弟分ってそういうことだったの!?よかったぁ、見られたのが本当の弟さんじゃなくて。
では、車まわしてきますね、と弟分さんはあたしに会釈をして部屋を後にした。
「私のお仕事、分かったかな?」
「……はい。ほんとにいるんですね」
「あっはっは。ほんとにきみは面白いね。私から逃げたい?」
逃げる?この窒息しそうな甘い空間から?そんなのあたしは生きていけない。それは比喩ではない。生活全てをちとせさんに明け渡し、支配を願ったあたしは、ちとせさんなしでは本当に生きていけない。首を左右に振ったあたしを見て、ちとせさんは満足げに微笑み、あたしの頭を優しく撫でた。
「私は結婚しています」
「……え?」
あたしの瞳が初めて不安に揺れた。ちとせさんが結婚していたことを悲しく思ったのではない。あたしはこの蕩けそうな甘い生活を手放したくないのだ。
「ふふ。大丈夫。きみが若さを失っても、私は捨てたりしませんよ。私も同じだけ歳を重ねていくのだから」
あからさまにホッとしたあたしを見て、ちとせさんは「きみのその素直さは美徳だ」と頬を緩ませる。
「いつまでも、なにも考えず、私だけのかわいい由依子ちゃんでいてくださいね」
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