case8.千葉芙美の罪〜大人にも子供にもなれない〜
結婚相手に求めたことは、第一に人として尊敬できるかどうか。次に優しさ。そして経済力と見た目。
どれもこれも重要なことだった。妥協はしなかった。この人だと思う人を見つけて、結婚ができた。だから何不自由もないし、少しの不満なんて可愛いものだ。
条件を羅列して、それに沿って相手を見つけることは打算的なのか。将来を考えながら計算して行う恋は本物ではないのか。
では、条件など考える暇もなく、ただ本能の赴くままに落ちてゆくのが本物の恋なのか。
▼
子供の幼稚園が終わるとその足で公園へ向かう。そこでママ友に「最近、全然運動してないの」と何気なく言った言葉がきっかけだった。
わたしの言葉に同調してくれたママ友が、「小学校の体育館でバドミントンしてるらしいよ」と教えてくれる。
バドミントン。その単語を口にしたのはいつぶりだろうか。確か高校の授業でやったことを薄っすらと記憶しているが、それっきり触れる機会などなかった。
「誰でも参加できるの?」
「みたい!体験参加もできるって、この前けいちゃんのママが行ったって教えてくれたの」
「えー、楽しそう!わたしも行きたい!」
「じゃあ一緒に行こうよ」
ママ友はだいたい同年代が多い。みんな口を揃えて「体型が戻らない」と言うのだ。わかる。体重どうこうの話ではなくて、子供を生む前とは身体のライン自体が変わってしまった。
家と幼稚園、そして公園にスーパー。以前と比べると行動範囲も狭まった。幼い子供がいれば新しいことを始めるのも腰が重くなる。色々な理由をつけて、身体の変化を割り切ってきたけれど。最近になってやっと、さすがに運動しなきゃやばいんじゃ?という気になってきたのだ。
その日の夜、けいちゃんのママに詳しく話を聞いてくれた陽子ちゃんからメッセージが届く。バドミントンクラブが開催される日程が書かれている。
『ありがとう!思ってたより頻繁にしてるんだね。しかも2時間も!』
『そうそう。私も思った!けいちゃんのママはしんどすぎてついていけなかったって』
そのメッセージを見て、一気に不安になる。運動神経が全くないわけではないと思うけれど。いかんせん運動経験は高校卒業からゼロなのだ。ま、とりあえず体験だし軽い気持ちで行ってみたらいいか。なんせ初回は無料だしね。
▼
体育館シューズも運動着も持っていないわたしは、体験参加当日の午前中にそれらを揃えた。今日に限り、ラケットは貸してくれるらしい。
こんな高い位置でポニーテールにするのも本当に久しぶりだ。普段とは違う装いのわたしを見て、子供は「ママかわいー」と瞳を輝かせた。夫に「じゃあ、よろしくね」と後のことを頼み家を出る。
小学校までは5分ほどで着く。19時前に一人で外を歩くのなんて何年ぶりだろう。たったこれだけ。これだけのことでウキウキしちゃうなんて。わたしの方が子供みたい。
校門前で待ち合わせをしていた陽子ちゃんと合流し、懐かしい体育館に足を踏み入れた。わたしの母校ではないんだけれど、どこの小学校もだいたい作りは同じだ。小さな下駄箱と、床のテカリと高い天井。バスケットゴールは使用しない時はぺたんこに収納されているようだった。
「よろしくお願いします」
と丁寧な挨拶をしてくれたのが、このバドミントンクラブの会長さん。歳はわたしたちより一回りほど上だろうか。今日はど素人のわたしたちに、会長さんがバドミントンを指導してくれるらしい。ありがとうございます。
会長さんからこのスポーツクラブについての説明を受けていると、ぽつりぽつりと今日の参加者が集まってきた。おじいさんや、わたしと同じぐらいの女性。そして小学生ぐらいの男の子に、そのパパらしき人。老若男女と表すのがピッタリな顔ぶれだ。
「みなさんバドミントン経験者なんですか?」
陽子ちゃんの質問に会長さんが「だいたいそうだね」と答える。やー、わたしやっぱり場違いかな?と不安になっていると、「あの男の子なんて、すごいよ。高校生でね、関東大会に出たこともあるんだよ」と会長さんが自慢げに笑う。なんでもここには息抜きにバドミントンをしに来てるらしい。
えー、すごい!どの子?と体を傾け、その子を探す。そしてばちりと目が合った。機嫌が悪そうな顔。それがわたしと大地くんの出会いだった。
▼
バドミントンクラブの体験に参加したわたしと陽子ちゃんは、結局本入部を決めた。月に1、2回の参加者もいると聞いたのが最後の一押しだった。それぐらいなら夫に罪悪感なく家のことをお願いできるし。なによりちょうど良い気分転換になる。健康的で最高じゃん。
毎回陽子ちゃんも同じタイミングで参加できるわけではないので、必然と他の人たちと関わることも増えた。だけど例の高校生だけは、なんだか不機嫌そうな顔でこちらを見てくるだけだ。
「あ、えーっと、牧田くん!お疲れ様」
「……千葉さん、お疲れ様です」
話しかけたら普通に返してくれるんだけどな。他の人とは楽しそうに話してるのに、なんでわたしにだけ少し冷たいんだろう。陽子ちゃんに聞いても「そうかな?」という返事だったので、わたしぐらいの歳の女の人が苦手というわけでもなさそうだ。
「今日は歩きなの?」
「そっすね」
「…………」
「…………」
会話が続かない。気まずい。「じゃあ、わたしこっちだから」と言おうとしたとき、牧田くんが「千葉さんって結婚してるんすか?」とわたしの左手を見た。その視線になぜか居心地が悪くなって、咄嗟に右手で左手を握る。
「う、うん……。幼稚園の子供もいるよー」
「……へぇ」
「もう32だしね!牧田くんからしたらおばさんでしょー」
そこまで自分を卑下しなくてもいいと思うが、なにに焦っているのか口が間を埋めようと空回る。
「そんなん……。やっぱオレは子供っすか?」
「え?子供?いや、うーん?」
その質問の意図はどこにあるのだろう。額面通りに受け取っても難しい。そりゃ年齢的には未成年で子供だけど。だけど、見た目は全然子供じゃない。バドミントンが終われば毎度恥じらいもなく着替え出すので、そこで目にしてしまった身体付きも。わたしが見てきた誰よりも筋肉質で男らしい。って、これはダメダメ。犯罪だから。
「男として見てくれますか?」
「え……それはどういう意味で……」
あ、これは聞いちゃダメなやつだった。後悔先に立たず。牧田くんは「好きです」となんのためらいもなく、自分の好意を口にした。ダメダメ。わたし、結婚してるし、子供もいるし。それにキミは未成年だしね。
断る理由にこれ以上のものなどあるだろうか。数え役満。それにそれらは何よりも効力を持つ理由だ。分かってる。わたしも彼も分かってる。だけど出てこない。だって、わたしには彼の好意を断る理由がないのだ。
▼
2人で会うときは牧田くんから大地くん呼びになった。と言っても彼もわたしも忙しい。ので、そうそうそんな機会などなかったが。
彼の不機嫌な顔つきは照れからくるものらしい。その証拠にわたしを見つめると、その幼い瞳がスッと色をなくすのだ。本人も「オレ、芙美さんを前にすると笑えなくなるんです」と言っていた。
聞いた当初は、それってどうなの?、と思ったが、「好きすぎておかしくなりそう」だなんて可愛いことを言うので、まぁいいかと呑み込んでしまった。
「ねぇ、オレのことどうやったら好きになってくれますか?」
「なに言ってんの?わたし、結婚してるんだよ。好きにはならないよ」
「なんで?別れてよ、オレと結婚してよ」
大地くんは可愛い。幼くて、なにも現実を知らない。そんなところが可愛い。なんのためらいもなく、「好きだ」と言ってのける純粋さが眩しい。そしてそんな無知さが憎らしい。
打算的に条件で相手を選ぶことのなにがそんなに悪いのか。結婚は現実だ。お伽話の夢物語ではない。愛情は実際にカタチを変えるのだ。だからわたしは人として尊敬できる夫を選んだ。燃えるような情愛も、身を焦がすようなトキメキもない。だけど、全てを乗り越えてゆける信頼がある。
「大地くんはかわいくて、ほんと子供ねぇ」
「……大人なことがそんなにえらいんすか?」
不貞腐れた声音が彼が子供だというなによりの証拠だ。
だけど、わたしは違うのだ。大地くんのように心のままに「好きだ」といえる子供ではない。だけど欲しいものをすんなりと諦めることができるほどの、大人でもない。
子供のようになれたらよかった。恥も外聞も捨てて、大地くんの胸に飛び込めたらよかった。
大人になれたらよかった。守るべきもののために、欲望に蓋をして、理性で身を固められたらよかった。
初めてだったのに。条件を羅列することなく、好きだと思えた人に出会えたのに。子供にも大人にもなれない、中途半端なわたしが邪魔をする。
それでも、そんなわたしを「好きだ」と言ってくれる大地くんが、わたしに愛想を尽かすまで。
それともそんなわたしに夫が気づいて、「別れよう」と、わたしに愛想を尽かすまで。
わたしはわたしの仮面を被る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます