case5.清水すみれの罪〜あの子が欲しい、あの子じゃわからん〜
あの子は白くて小さくて柔らかい。その中でも一等、寒さに紅く色づくまろい頬がたまらなく好きなのだ。
高い澄んだ声で私の名前を呼んで、「好きだよ」「ずっと一緒ね」となんの躊躇いもなく言って、私の心を掻き乱す。
深い意味などないその言葉で、あの子は私を離さない。
あの子が私のものになる日など、これから先ずっとこないのに。
▼
私はこの男のことが世界で一番嫌いだ。
それは、この男が私の一番欲しいものを手にしておきながら、易々と手放すことも厭わないからだ。
「っはぁー。今日もめっちゃ気持ち良かったぁ!なぁ?」
「そう?」
「んだよー、相変わらず冷めてんなぁ」
「そんなことより、あの子にバレないようにしてよね」
この男と体を重ね出してから、同じ注意を何度したか分からない。軽薄で頼りないこの男のことは、一ミリも信用していないのだ。
顔だけが取り柄の中身空っぽ男。あの子はこんな奴のどこが良いのだろう。
「吉田くんのことが好きなの」と、私の大好きなまろい頬が幸せそうに緩む。その微笑みはいつもより一層魅力的で、彼女をそうさせてしまう"吉田くん"を試したくなった。
そうすれば、私は彼女になれるかもしれない。同じものを共有すれば、私も彼女の芯の部分に触れることができるかもしれない。
彼女が「吉田くんと付き合うことになった」と報告をしてくれた時、その願望はより一層強いものとなった。
"吉田くん"は私が想像していたよりずっと簡単だった。「あの子のことで伝えておきたいことがあるの」と意味ありげに告げれば、警戒など少しもされずに2人で会う約束を取り付けられた。
そしてその日、私と"吉田くん"はセックスをしたのだ。後から知ったことだが、あの子はまだキスもしていなければ、手も繋いでいなかったらしい。
なぁんだ、つまんないの。あの子が手を繋いで、キスをして、セックスをしたこの男にこそ価値があるのに。全部済ませてから声をかけた方がよかったかな。少しでも早くあの子のことを知りたくて、焦ってしまった。
しかし、何度会って話しても、何度会って体を重ねても、私にはこの男の良さは少しも分からない。これなら私の方が頼りになるし、私の方があの子を大切にできるよ。早く別れたらいいのに。
「んー、そのことなんだけどさ、オレ、別れようと思って」
「……は?なんで?」
なんであんたがあの子を振ろうとしてんの?烏滸がましいにも程がある。早く別れろとは常々思っていたけれど、その主導権はあの子にあるべきで、浮気を繰り返しているあんたではない。
「いや、なんでって……。あー……うーん…………引かない?」
「は?」
この男はたっぷりと間を取ったあと、「好きなんだ」とぽつりと呟いた。やはりこいつの中身は余程の空っぽだ。あの子より私を選ぶだなんて。頭がおかしい。どうかしてる。
「あいつのこと裏切ってるのも、自分の気持ちごまかしてるのも、正直しんどい……」
「なにそれ?あんただけまともな振りしないで。一抜けしたいならどーぞご勝手に」
「違うよ、そうじゃない!オレはほんとにお前のこと、」
上手に息を吸えなかったのか、男の喉から微かに「ひゅっ」と音が鳴る。
「あいつとは別れる。それで、オレとほんとに付き合お?」
「?何言ってんの?あの子と付き合ってないあんなには、なんの価値もないわよ」
これ以上は時間の無駄だと、服を掻き集め、部屋を去ろうとした。
「んだよ、それ。お前の目的ってなんなの?オレのことが好きだから近づいてきたんじゃねーのかよ」
「まさか。私が近づきたかったのは、あの子よ。私、あの子になりたいの」
「……はっ、意味わかんねぇ。頭おかしいんじゃねーの」
そう言って、戸惑いと嫌悪を吐き捨てた男は、やはり頭が悪い。私は理解をされたいと思ったことは一度たりともないのだ。意味など考えるだけ無駄。分からなくて当たり前。
▼
やはり私はこの男のことが世界で一番嫌いだ。
あんなことを言った次の日に、恥じらいもなく再び連絡を寄越して、しかもそれだけにとどまらず「別れないことにした」とのたまったのだ。
なんだかすっかり興が削がれてしまったのだけれど。それでもあの子が「吉田くんがね、吉田くんがね」と執拗に惚気るものだから、私は"吉田くん"との逢瀬を重ねてしまう。
ある日の放課後。あの子の部活が終わったタイミングで体育館を覗いた。
「あっ、すみれちゃーん!」
「あ、清水さん」
なんでこの男もいるのだろう、と思ったが、なんてことはない。"吉田くん"はこの子の彼氏なのだ。部活終わりに待ち合わせをしていても、なんら不思議ではない。
「どうしたの?」
「ううん。一緒に帰ろうと思ったんだけど、先約があったみたいね」
「そうなんだ!ありがとね!せっかくだし、すみれちゃんも一緒に帰ろうよ!ね、いいよね?吉田くん!」
「もちろん。清水さんがいいなら、オレはかまわないよ」
何も知らないあの子の無垢な笑顔。挑発するような"吉田くん"の笑顔。私は気がつけば「それじゃあ、お言葉に甘えて」とその挑発に乗ってしまっていた。
「わたし、今日鍵当番だから職員室に返してくるね!」
「私も一緒に行くよ?」
「いーのいーの!すみれちゃんはここで待ってて!吉田くん、すみれちゃんモテるから、ちゃんと守ってあげててね!」
「了解しました!我が命にかえても」
仰々しく敬礼で応えた"吉田くん"に、可愛いあの子は「やだぁ、ほんとおもしろい」と手で口元を隠し笑う。隠しきれないまろい頬が、やはり幸せそうだ。
「ちゃんと守っててね、だって。健気だよねぇ。大好きな"すみれちゃん"は、大好きな"吉田くん"と、酷いことしてるのにね」
ほんとやな男。そんなことわざわざ今言わなくてもいいのに。会話を続ける気のない私は、ふい、とそっぽを向いた。
「あいつにはバレたくないって必死だったよなぁ?そんな好きなの?あいつのこと」
揶揄うような口調で、なおもこの男は私を挑発する。あんたになんて誰が言うか。
「お前、自分だけが色々と考えてると思ってるだろ?特にオレのことは、中身空っぽのバカな男だと思ってる」
「……だとしたらどうなの?」
「ご愁傷様。お前の中身もたいしたことねーよ」
そう言って、悪魔みたいな笑みをたたえた男は、緩慢な動作で、だけど深く確実に、私の唇を奪った。
「ん、ちょ、まって……んっ、」
あの子が帰ってくる。職員室から小走りで。私たちを少しでも待たせまいと。あの子はそういう子だ。それはあんたも知ってるでしょ?
しかし私の抵抗の全てを飲み込んで、この男は一層深く舌を絡ませる。私の中身全てを引き摺り出されてしまう。そう錯覚してしまうほどの、色気など微塵もない鬼気迫る口づけであった。
「もう遅いよ」
これが最上の幸福だと見紛うような笑みを浮かべ、男がそう言ったのと、あの子が「え、どうして」と、その光景に戸惑ったのは同時だった。
咄嗟に言い訳の言葉など出てこない私を尻目に、男は「実はオレたち、前から何度もこうしてキスしてたんだ」と、それはそれは残酷な事実を嬉々として告げた。
「え……、それは……」
「キスだけじゃないよ、セックスもたくさんした」
「ちょっと、やめてよ!」
「なんで?オレ、嘘は言ってねーよ」
男のその台詞を最後に、まろい頬を涙で濡らしたあの子は一目散に駆け出した。私の空っぽの「待って!」の言葉は、彼女には届かない。大切なあの子がいなくなった。私の手の届かないところへ行ってしまう。
「意味わかんない!頭おかしいんじゃないの!?なんでこんなことしたの!?」
いくら私に恨みがあって、憎いと言えど、あの子を無意味に傷つける必要なんてこれっぽっちもなかった。
「なんで?だってオレは、ずーっと、ずーっと、お前が欲しかったんだ。手段を選ばないのはお前も同じだろ?」
どこから仕組まれていたのか。男は満足げな笑みを浮かべる。
こんなことをしても私が手に入るわけではないのに。あんなことをしても、あの子になれるわけでも、近づけるわけでも、まして手に入るわけでもなかったのに。
皮膚が薄い私の頬に流れた涙を、吉田くんはゆっくりと舌先で味わった。
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