case5.清水すみれの罪〜あの子が欲しい、あの子じゃわからん〜

 あの子は白くて小さくて柔らかい。その中でも一等、寒さに紅く色づくまろい頬がたまらなく好きなのだ。

 

 高い澄んだ声で私の名前を呼んで、「好きだよ」「ずっと一緒ね」となんの躊躇いもなく言って、私の心を掻き乱す。

 深い意味などないその言葉で、あの子は私を離さない。


 あの子が私のものになる日など、これから先ずっとこないのに。






 私はこの男のことが世界で一番嫌いだ。

 それは、この男が私の一番欲しいものを手にしておきながら、易々と手放すことも厭わないからだ。



「っはぁー。今日もめっちゃ気持ち良かったぁ!なぁ?」

「そう?」

「んだよー、相変わらず冷めてんなぁ」

「そんなことより、あの子にバレないようにしてよね」


 この男と体を重ね出してから、同じ注意を何度したか分からない。軽薄で頼りないこの男のことは、一ミリも信用していないのだ。

 顔だけが取り柄の中身空っぽ男。あの子はこんな奴のどこが良いのだろう。



 「吉田くんのことが好きなの」と、私の大好きなまろい頬が幸せそうに緩む。その微笑みはいつもより一層魅力的で、彼女をそうさせてしまう"吉田くん"を試したくなった。

 そうすれば、私は彼女になれるかもしれない。同じものを共有すれば、私も彼女の芯の部分に触れることができるかもしれない。


 彼女が「吉田くんと付き合うことになった」と報告をしてくれた時、その願望はより一層強いものとなった。

 

 "吉田くん"は私が想像していたよりずっと簡単だった。「あの子のことで伝えておきたいことがあるの」と意味ありげに告げれば、警戒など少しもされずに2人で会う約束を取り付けられた。

 そしてその日、私と"吉田くん"はセックスをしたのだ。後から知ったことだが、あの子はまだキスもしていなければ、手も繋いでいなかったらしい。

 なぁんだ、つまんないの。あの子が手を繋いで、キスをして、セックスをしたこの男にこそ価値があるのに。全部済ませてから声をかけた方がよかったかな。少しでも早くあの子のことを知りたくて、焦ってしまった。


 しかし、何度会って話しても、何度会って体を重ねても、私にはこの男の良さは少しも分からない。これなら私の方が頼りになるし、私の方があの子を大切にできるよ。早く別れたらいいのに。




「んー、そのことなんだけどさ、オレ、別れようと思って」

「……は?なんで?」


 なんであんたがあの子を振ろうとしてんの?烏滸がましいにも程がある。早く別れろとは常々思っていたけれど、その主導権はあの子にあるべきで、浮気を繰り返しているあんたではない。


「いや、なんでって……。あー……うーん…………引かない?」

「は?」


 この男はたっぷりと間を取ったあと、「好きなんだ」とぽつりと呟いた。やはりこいつの中身は余程の空っぽだ。あの子より私を選ぶだなんて。頭がおかしい。どうかしてる。


「あいつのこと裏切ってるのも、自分の気持ちごまかしてるのも、正直しんどい……」

「なにそれ?あんただけまともな振りしないで。一抜けしたいならどーぞご勝手に」

「違うよ、そうじゃない!オレはほんとにお前のこと、」

 

 上手に息を吸えなかったのか、男の喉から微かに「ひゅっ」と音が鳴る。


「あいつとは別れる。それで、オレとほんとに付き合お?」

「?何言ってんの?あの子と付き合ってないあんなには、なんの価値もないわよ」


 これ以上は時間の無駄だと、服を掻き集め、部屋を去ろうとした。


「んだよ、それ。お前の目的ってなんなの?オレのことが好きだから近づいてきたんじゃねーのかよ」

「まさか。私が近づきたかったのは、あの子よ。私、あの子になりたいの」

「……はっ、意味わかんねぇ。頭おかしいんじゃねーの」


 そう言って、戸惑いと嫌悪を吐き捨てた男は、やはり頭が悪い。私は理解をされたいと思ったことは一度たりともないのだ。意味など考えるだけ無駄。分からなくて当たり前。





 やはり私はこの男のことが世界で一番嫌いだ。


 あんなことを言った次の日に、恥じらいもなく再び連絡を寄越して、しかもそれだけにとどまらず「別れないことにした」とのたまったのだ。


 なんだかすっかり興が削がれてしまったのだけれど。それでもあの子が「吉田くんがね、吉田くんがね」と執拗に惚気るものだから、私は"吉田くん"との逢瀬を重ねてしまう。



 ある日の放課後。あの子の部活が終わったタイミングで体育館を覗いた。


「あっ、すみれちゃーん!」

「あ、清水さん」


 なんでこの男もいるのだろう、と思ったが、なんてことはない。"吉田くん"はこの子の彼氏なのだ。部活終わりに待ち合わせをしていても、なんら不思議ではない。


「どうしたの?」

「ううん。一緒に帰ろうと思ったんだけど、先約があったみたいね」

「そうなんだ!ありがとね!せっかくだし、すみれちゃんも一緒に帰ろうよ!ね、いいよね?吉田くん!」

「もちろん。清水さんがいいなら、オレはかまわないよ」


 何も知らないあの子の無垢な笑顔。挑発するような"吉田くん"の笑顔。私は気がつけば「それじゃあ、お言葉に甘えて」とその挑発に乗ってしまっていた。


「わたし、今日鍵当番だから職員室に返してくるね!」

「私も一緒に行くよ?」

「いーのいーの!すみれちゃんはここで待ってて!吉田くん、すみれちゃんモテるから、ちゃんと守ってあげててね!」

「了解しました!我が命にかえても」


 仰々しく敬礼で応えた"吉田くん"に、可愛いあの子は「やだぁ、ほんとおもしろい」と手で口元を隠し笑う。隠しきれないまろい頬が、やはり幸せそうだ。


「ちゃんと守っててね、だって。健気だよねぇ。大好きな"すみれちゃん"は、大好きな"吉田くん"と、酷いことしてるのにね」


 ほんとやな男。そんなことわざわざ今言わなくてもいいのに。会話を続ける気のない私は、ふい、とそっぽを向いた。


「あいつにはバレたくないって必死だったよなぁ?そんな好きなの?あいつのこと」


 揶揄うような口調で、なおもこの男は私を挑発する。あんたになんて誰が言うか。


「お前、自分だけが色々と考えてると思ってるだろ?特にオレのことは、中身空っぽのバカな男だと思ってる」

「……だとしたらどうなの?」

「ご愁傷様。お前の中身もたいしたことねーよ」


 そう言って、悪魔みたいな笑みをたたえた男は、緩慢な動作で、だけど深く確実に、私の唇を奪った。

  

「ん、ちょ、まって……んっ、」


 あの子が帰ってくる。職員室から小走りで。私たちを少しでも待たせまいと。あの子はそういう子だ。それはあんたも知ってるでしょ?

 しかし私の抵抗の全てを飲み込んで、この男は一層深く舌を絡ませる。私の中身全てを引き摺り出されてしまう。そう錯覚してしまうほどの、色気など微塵もない鬼気迫る口づけであった。


「もう遅いよ」


 これが最上の幸福だと見紛うような笑みを浮かべ、男がそう言ったのと、あの子が「え、どうして」と、その光景に戸惑ったのは同時だった。

 咄嗟に言い訳の言葉など出てこない私を尻目に、男は「実はオレたち、前から何度もこうしてキスしてたんだ」と、それはそれは残酷な事実を嬉々として告げた。


「え……、それは……」

「キスだけじゃないよ、セックスもたくさんした」

「ちょっと、やめてよ!」

「なんで?オレ、嘘は言ってねーよ」


 男のその台詞を最後に、まろい頬を涙で濡らしたあの子は一目散に駆け出した。私の空っぽの「待って!」の言葉は、彼女には届かない。大切なあの子がいなくなった。私の手の届かないところへ行ってしまう。


「意味わかんない!頭おかしいんじゃないの!?なんでこんなことしたの!?」


 いくら私に恨みがあって、憎いと言えど、あの子を無意味に傷つける必要なんてこれっぽっちもなかった。


「なんで?だってオレは、ずーっと、ずーっと、お前が欲しかったんだ。手段を選ばないのはお前も同じだろ?」


 どこから仕組まれていたのか。男は満足げな笑みを浮かべる。

 こんなことをしても私が手に入るわけではないのに。あんなことをしても、あの子になれるわけでも、近づけるわけでも、まして手に入るわけでもなかったのに。


 皮膚が薄い私の頬に流れた涙を、吉田くんはゆっくりと舌先で味わった。

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