case4.九重蒼太の罪〜自分で自分の首を絞める〜

 何者にもなれないと気づいたのはいつの頃だったか。

 普通の幸せを手に入れることが一番難しいというのに、オレはなに不自由のない幸せの上にあぐらをかいていたわけだ。


 失ってみて初めて気づく、という先人たちの有り難いお言葉を、身をもって実感するが、気づいた時には後の祭り。


 底無し沼は恐ろしい。だけどそこに望んで飛び込んだのは、間違いなくオレ自身なのだ。





 久しぶりに、バイトも、遊びの予定もない日曜日。オレは、2日前に配信されたばかりのスマホ版オンラインゲームを、部屋に篭ってやり込んでいた。

 

「はぁー!?さっきのはお前がいくとこだろーが!」


 チーム戦のそのゲームでは、つい味方の悪いこところばかりが目につく。3連敗をきっしたオレは、「こんなんクソゲーだわ!」とスマホをベッドに放り投げた。思わず床に投げつけそうになったのを止められたことは、褒めてやりたい。


 イライラする。だけど、もう一戦。気持ち良く勝てるまでは。

 先ほどクソゲーだと評して、もう絶対やらん!と思ったのに。オレの手は、ベッドの上に放られたスマホへと伸びていた。

 

「そうたーっ!洗濯物取り込んでー!」


 気持ちを入れ替えて、冷静にもう一戦しようと思っていたのだ。しかし、大声でオレを呼ぶ母親の声にそれは遮られた。

 あと少しでも遅かったら、「今ゲームしてるから無理!」と断って、それに怒り狂った母親にけちょんけちょんに責められていただろう。それを考えればナイスタイミングである。


「そうたー!?」

「聞こえてるよ、分かったー!」


 返事のないオレの名前を再び呼んだ声は、先ほどよりも確実に怒りが込められていた。ほんの少し返事が遅れただけでこれだ。まじで短気。オレは絶対に、穏やかで怒らない人と結婚しよう。

 そんなことを考えていると、先週別れたばかりの彼女が頭に浮かんだ。付き合う前と付き合った当初は穏やかで優しかったのだ。だけど、どんどんワガママで怒りっぽくなりやがって。

 挙げ句の果てには、「ワタシ好きな人ができたから」とオレを振って、その翌日にはサークルの先輩と付き合ってた。ただのビッチ。まじで死ね。

 

 あー、思い出したらまたイライラしてきた。なんも楽しくない。なんの変わり映えもない毎日を消費していくだけ。

 きっとこの先もテキトーに飯食って、テキトーなところに就職して、働いて、テキトーな女と結婚して……ましで先が知れてんな。


 将来を想像して重いため息を吐きながら、それでも母親からの指示を忠実に遂行するべく、ベランダへ続く扉を開ける。

 5月の風は爽やかで心地良いはずなのに、今はそれすらも煩わしい。


 綺麗に並んで干されている洗濯物を取り込むたびに視界が開けていく。オレの人生の邪魔をするクソみたいな人やモノもこんな風に取り除けば、少しは明るくなるのだろうか。


「……は?」


 物干し竿の真ん中辺りの洗濯物を外したとき、オレの目にあり得ないものが飛び込んできた。目を疑い、何度も瞬きを繰り返したけれど、まだ視認しているということは、それは確かに存在しているようだ。

 なんで真っ裸の女がいるんだ?しかもオレとバッチリ目が合っているのに、恥ずかしがるどころか楽しそうにこちらに手を振っている。


 やべぇ、薬でもやってんじゃねーの?女の裸を見たというのに、興奮するどころか恐怖に慄いている。

 急いで部屋に入り、カーテンを閉めた。落ち着け落ち着け。必死に言い聞かせたが、向かいのマンションのベランダで胸を放り出した女を見る、という衝撃体験をして落ち着けるわけなくね?


 少し冷静さを取り戻してきてくると、もう一回見てみようかな?という邪な考えが顔を出す。人生に悲観はしているものの、オレだって健全な大学生だ。女の裸は拝めるものなら拝みたい。

 握り締めていた洗濯物を床に置き、残りの洗濯物を取り込むていで、もう一度ベランダへと出た。


「あ……」


 女は先ほどと同じ格好、つまり胸を放り出してまだこちらを見ていた。そしてオレを見つけると手招きをしたのだ。

 おいで、と誘われて、あんな危なそうな女のところにホイホイ飛び込んでいく奴があるかよ?日曜日の昼過ぎだぞ。マンションの3階なんて、道を歩いている人が見上げれば見えてしまう高さだ。

 絶対、薬。それじゃなけりゃ、痴女の変態だ。

オレはこれからも普通に過ごして、普通な人生を歩めばいいじゃん。その普通が難しい、って先人たちはみんな言ってるだろ?



「あ、蒼太!洗濯物取り込めた?」

「ごめん、途中!ちょっとしてから母さんが取り込んどいて!」

「え、ちょっと!あんたどこ行くの?」


 知らねーよ。オレもどこに行くかなんて知らない。ってか、勢いで家出ちゃったけど、何号室かも知らないし。


 道路を挟んだ向かい側にあるマンションを見上げれば、女は指で共用玄関の方を指した。オレはその指示に従い、そこを目指す。

 もう冷静になってもいい頃なのに、アドレナリンがドバドバと出まくっているのが分かる。

 指定された共用玄関に着き、ソワソワと落ち着かない心地で女を待っていると、透明なガラスの向こうにその女が見えた。

 当たり前に服を着ている。そりゃそうだ。さすがに裸で来られたらビビる。


 女が近づくとゆっくりと開いた扉。


「いらっしゃい」


 目眩を覚えてしまいそうなほどゆったりとした口調で、女は微笑む。僅かに上がった口角の近く、左右対称についたホクロが、とても色っぽいと思った。





「怖くなって逃げたんかと思ったわぁ」


 第一声では気づかなかったが、彼女は関西訛りがあった。テレビで聞いたことはあるが、関西弁を生で聞くのは初めてだ。関西弁ってこんな可愛いんだ。

 「喉、渇いてない?」と台所に立った彼女の背に「いえ、大丈夫」ですと答えれば、「そう」と彼女はオレの横に腰を下ろした。


「……いや、怖かったですよ」


 オレの正直な気持ちに、彼女は高めの声でころころと笑った。鈴を転がすような声とは、彼女のそれを指しているのだろう。


「じゃあ、なんで来たん?わたしのおっぱい目当て?」


 楽しげに細められた目と、キュッと上がった口角が、悪戯をする子供のようだ。いったい何歳なんだろう。名前はなんていうんだろう。


「お、おっぱい……まぁ。って、なんであんなことしてたんですか?」

「えー?そんなん楽しいからやん。めっちゃ気持ちいいねんで」

「興奮するんですか?」

「うーん、解放って感じ?興奮は……してるか確かめてみる?」


 そう言うや否やオレの手を掴んだ彼女は、自分のスウェットの中にオレの手を招き入れた。ギョッとしたのは一瞬で、パンツをつけていなかった彼女のじっとりと湿ったそこを指先で擦れば、「んっ」と漏れた彼女の甘い声にオレの理性は跡形もなく消え去った。


 


 こんなに気持ちの良いセックスは後にも先にもないかもしれない。そう思うほど彼女とのセックスは刺激的で強烈だった。

 キスをするだけで脳髄が溶け出し、なにも考えられなくなっていく。


「な、なまえ、おしえて」


 彼女を必死で突きながら、今聞くことか?というような質問をしたオレに、彼女は「なんやと思う?」と頓珍漢な返事を寄越した。

 知らねー、分かるわけないじゃん。もうだめだ、考えらんない。気持ちいい。許されるなら、いつまでも彼女の中にいたい。


「あはは、今のキミの顔、最高にみじめで、最高に可愛い」


 ひでぇー。それでも「たまんないね。ずっとこうしてたい」と、彼女が幸せそうに微笑むから、もうなんでもいい。惨めでも、みすぼらしくても。


「あっ、いきそう、オレ、も、いく」

「いーよ、ぜーんぶわたしに出して」


 弾けた。オレの妬み嫉み、恨み辛み、焦燥や憤り。嫌な感情は彼女が全て受け止めてくれた。


 オレ、最悪な人を好きになってしまったかも。抱きしめられ、柔らかな胸に顔を埋め、窒息の幸せを感じながら、一方で平凡の終わりを感じる。

 叶っても叶わなくても、オレはこの人から逃れられない。

 もはや明日がどっちにあるのかさえ分からないのに、それだけははっきりと分かった。

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