case3.加瀬かおるの罪〜触っていいのは大切な人だけ〜

 本当の私は、こんなに奔放で自由なのだと。セックスはこんなに気持ち良く、楽しいものだと。


 それを私に教えてくれたのは、本名さえも知らない人だった。





 艶やかな髪を丁寧に巻き、指先には薄っすらとネイルを施して。そんな細部までに気を使っている後輩を見る度に、女として負けてるなぁ、と意味もなく悲しくなる。


 そもそも身なりに気を使うことは、元々の作りが美しい、若しくは人並みである、選ばれた人たちの特権だと思って生きてきた。

 お世辞にも造形が整っているとは言えない私は、20代も後半に差し掛かった今の今まで、オシャレを楽しむなどという考えを持つことは許されない側の人間だと、本気で思って生きてきたのだ。



「先輩、その考え古いですよ」


 就業後、更衣室で私服に着替えながら、いつもより気合いの入ったメイク直しをする後輩に「デート?」と聞けば、「マッチングアプリで知り合った人と」と照れ笑いを返された。

 それについ「え、出会い系?怖くない?」と本音をこぼしてしまう。そんな本音に顔を顰めた後輩は「古いですよ」と指摘して、私にマッチングアプリの使い方を懇々と説明してきたのだ。


「へぇ、そんなシステムになってるんだ」


 それを真剣に聞きながら、頭の大部分を占めるのは"でも、私みたいなのが選んでもらえるわけないし"というネガティブなものだった。

 その人を知るという意味では、些か頼りないプロフィール項目。これは完全なる偏見かもしれないが、ほとんどの人が顔写真を見て選んでいるだろう。それは写真がプロフィール項目の中で一番大きなスペースを取っていることからも、ありありと伝わってきた。

 こんな、顔だけで勝負!、の世界で私を選んでくれる人なんていない。そう思うからこそ、マッチングアプリが出会い方の一つとしてここまで市民権を得ても、なかなか利用できずにいた。


 しかし、普段の生活の中では男の人と出会う機会など、ゼロに等しい。私にだって、彼氏が欲しいという気持ちは人並みにある。

 そんな私にはこれに頼るしか道は残されていない、と思っているのもまた事実。


「一度してみて、合わなかったら辞めたらいいんですよ!」


 メイク直しを終え、香水まで振りかけた後輩は、私の背中を押すだけ押してデートへと行ってしまった。

 一人残された更衣室で、澄んだ冬の空気の中でこそ映える、甘いバニラの残り香が、私の臆病な心を優しく包み込んだ。





 いざその時になって、やっぱりやめておけばよかったと後悔する癖は学生の頃から変わっていない。

 友達との遊びや家族との旅行も、何処に行こうか、何をしようか、と考えている時が一番楽しい。約束の日が迫ってくると、唐突に億劫になってしまうのだ。さすがにドタキャンはしないけれど。人として。



 後輩にマッチングアプリをすすめられてから二ヵ月。数人の人と連絡を取り合って、約束までできたのはたった一人だった。

 今日はそのたった一人の人と初めて会う日。やたらと気合いを入れるのは恥ずかしくて、そもそも自分のキャラでもない気がして、普段通りの格好だ。

 私が今日、男の人と会うだなんて、誰も気づかない。現に会社の人にも、仲の良い後輩にも、ただの一人にも「今日雰囲気違いますね」とは言われなかった。いつも通りだ。


 ソワソワと落ち着かない。そもそも男の人とデートで待ち合わせなんて何年振りだろうか。男性との待ち合わせ、私の場合それは、仕事関係の人とばかりだった。

 

 そろそろかな、と待ち合わせ場所にあった時計を見れば、背後から「かおるさん?」と控えめに名前を呼ばれた。

 どきん、と一度心臓が大きく鳴り、壊れかけのオモチャのようなぎこちない動きで振り返れば、そこには優しく目を細めた男性が立っていた。


「あ、……はい」


 きっとこの人だ。待ち合わせ場所に現れたのは、私が頭の中で思い描いていた人物よりずっと若々しい印象の男性。

 え、私の7歳上だったよね、たしか。信じらんない……。

 なにも私だって、アプリのプロフィール欄を心から信じていたわけではない。プロフィール画像は顔がハッキリと写っていなかったので、やり取りの内容や文章でなんとなく年上かな、とは思っていたのだ。

 しかしどうだろう。今私の目の前にいる人は、どう考えても私と同じぐらいに見える。


「僕、亮介です。優しそうな人で安心しました」


 人好きのしそうな柔らかい笑みをたたえ、亮介さんは「じゃあ、ご飯食べに行きますか」と、さりげなく私の肩に触れた。

 

 2人で歩きながら、私は心の中で"とりあえずドタキャンされなくて良かったぁ"と安心していた。一応プロフィール画像には、加工なしのありのままの私を載せていたけれど、心配していたのだ。

 待ち合わせ場所で私を見た亮介さんが萎えて、ドタキャンされたらどうしようと。今の時代、自己肯定感低すぎー、と指導が入りそうな考えだが。万が一より、もっと高い確率で実際に起こり得そうなことなので、心配になるのも致し方ないと思う。


 しかし私の予想に反して、亮介さんは会うまでの印象そのままにとても紳士的だった。博識で、私が知らないたくさんのことを知っていた。話も上手で、気がついたら言わなくていいような過去の話や、自分のコンプレックスまで洗いざらい打ち明けてしまっていた。

 自分に自信がないんです、なんて、初対面の相手に相談されても困るだろう。私なら絶対困る。しかし亮介さんは、嫌な顔一つせず、結末を急かすこともせず、ただ頷き聞いてくれる。

 

 いつ間にか自分のことを"僕"ではなく"俺"と呼ぶようになり、アルコールで顔を赤くした亮介さんを見つめ、好きだなぁ、と身の程知らずな恋に落ちてしまった。


「俺、かおるちゃんのこと、すごく魅力的だと思うよ」




 前後左右も分からなくなるほど恋に溺れている人たちを馬鹿にしていた。

 同級生のあの子も、会社の後輩も、通勤電車の中でたまたま横に座ったいつかの彼女も、みんなみんな馬鹿にしていた。

 

「今自分がどんな顔してるのかよく見てごらん」


 後ろから腕を掴まれ、胸を反らされた私の顎を固定し、亮介さんは耳元で吐息混じりに甘く囁く。

 私の中で存在を主張する亮介さんの熱に責め立てられ、朦朧とした意識と虚な瞳で、それでも素直に従えば、鏡の中の私と目が合った。

 あぁ、なんてだらしなく、情け無い顔。これこそ、あれだけ心の中で馬鹿にしていた、恋に溺れた女の顔だ。

 嫌悪感さえ覚えていたその顔は、どうして、今はとても幸せそう。


「ね、すっごくやらしくて、とびっきりかわいい」


 と亮介さんが満足げな声を出せば、連続して与えられる快感に歪んだ苦悶ともとれる表情をしていた私は、また幸せそうに溺れていく。

 


 

 私の顔を不躾に覗き込んできた後輩が、「先輩、もしかして彼氏できました?」と目を輝かせた。


「相変わらずできてませんが?」

「えー、そうなんですかぁ!じゃ、恋してるとか?」

「さぁ?どうだろ。てか、仕事しないと!」


 はぐらかした私に、後輩は不満顔を隠そうともせず「はーい」と形式だけの返事をした。


 

 色恋事に聡い後輩も、今回ばかりは勘が外れたようだ。私は恋人もいなければ、恋もしていない。

 あの夜、燃えるような時間を過ごし、私の心を開いてくれた亮介さんとはあれっきりだった。

 アプリの出会いではよくあること。端的に言えばやり逃げされたわけだ。


 だけど私は落ち込んではいなかった。あの夜、快感を強制的に教え込まれ、溺れたような苦悶の表情を浮かべた自分を見て、気がついた。

 今までうらやんで、腹いせに"馬鹿だ"と蔑んでいた彼女たちと私の違いなど、なにもなかったのだ、と。

 裸になってしまえば、ついてるものはみんな同じだ。見惚れてしまうほどの綺麗な彼女も、卑屈な私も。

 私なんて、と避けていたオシャレも最近は楽しい。


 そして今や私は、マッチングアプリのヘビーユーザーだ。

 体の関係を望む私に、彼らはみな優しかった。



 私は今日も、組み敷かれながら苦悶の表情を浮かべる。だけどそれは彼らも同じなのだ。

 与えているのか与えられているのか、奪っているのか奪われているのか。


 ただ、快楽に溺れる。深く潜ってしまえば、苦しさは少しも感じない。


 過去のしがらみも未来への焦燥もなく、あるのは今だけ。この一瞬だけなのだ。

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