case2.宇野春香の罪〜不倫はいけないことみたい〜

 ただ一人の人と永遠を誓いあう結婚をしていても、まして子供がいても、誰かをかっこいいと思うことは罪ではないでしょう?


 送り迎えで見かける度に、公園で言葉を交わす度に、かっこいいな、と思っていたの。だけど、ただそれだけだった。

 あの日の些細なきっかけが無ければ、今もそう思っていただけだったのに。





 上の子を幼稚園に送って行ったその足で、今度は下の子と病院へ向かう。昨日の夕方ぐらいから風邪の予兆はあったのだ。どうか酷くなりませんように、という願いも虚しく、朝起きてみれば鼻づまりが苦しそうだった。

 これは耳鼻科に連れて行かなきゃなぁ、と思うのと、車ないんだったー、と頭に浮かんだのは同時だった。

 今日は珍しく、夫が職場に乗って行ってしまったのだ。こんな日に限って……。でも仕事で必要ならば仕方ない。電動自転車を所持していない私は、徒歩で20分ほどの耳鼻科に、下の子をバギーに乗せて向かうしかなかった。




「じゃあ、病院へしゅっぱーつ!」


 私は楽しくなるように童謡を歌いながら、バギーを押す。下の子は最近歩きたい時期で、大人しくバギーに乗ってくれないのだ。

 どんぐりころころ、こぎつねこんこん、幸せなら手をたたこう。子供の時に歌っていたはずの童謡はすっかり忘れてしまっていたが、子育てを始めて自然と覚え直した。あの頃は歌詞も曖昧だったが、今では完璧にインプットしている。


 しかし魔の2歳は伊達ではない。先ほどまで機嫌良く、私が歌う童謡に、身振り手振りや拙い歌でもって応えてくれていたはずなのに。今は「おりたーいー」と泣き叫んでいる。

 現在地はまだ家の方が近いぐらいで、病院へは程遠い。これは長い旅になりそうだ、と覚悟を決めた瞬間、黒いワゴンタイプの車が横付けしてきたのだ。

 え、なに……怖い。と、咄嗟に子供を守る体勢に入った私を安心させるかのように、開き始めた窓から「あおいくんのママ!」と明るい声が聞こえた。聞き覚えのある声と、私のことを知っている事実に胸を撫で下ろした。


「え、あ、あぁ!みなとくんのパパ!」


 全開になった窓から、よく見知った顔が現れる。その人は、長男の仲良しのお友達のパパだった。

 活発そうな見た目そのままに、彼はみなとくんを連れてよく公園に行っている。そして、公園へは幼稚園帰りに直行するので、みなとくんのことが大好きな息子も一緒に行って遊ぶのが常なのだ。

 私たちはそこで仲良く遊ぶ2人を眺め、取り留めのない話に花を咲かせていた。


「ごめん、びっくりさせちゃったね?どこ行くの?」

「あはは、大丈夫です。えっと、ひなたを耳鼻科に連れて行くところで」

「え?耳鼻科って駅前の?よかったら乗って行きなよ」


 その申し出は正直ありがたかった。だけど、息子のお友達のパパの車に、ママの許可なく乗るって……。もちろんみなとくんのママのこともよく知っている。小柄で可愛らしい人だ。

 しかし私が躊躇ったのは一瞬であった。次に息を吐く瞬間には「助かります」と白々しくお礼を述べていた。


 この私の行動になんとか理解を示そうとすれば、きっと誰もが、グズグズの子供をすぐに病院へ連れて行けるメリットって大きいもんね、というところに行き着くだろう。

 しかし、私は全く違うメリットを感じていたのだ。私にとっては、グズグズの長女を少しでも早く病院へ連れて行くことより、みなとくんのパパとお近づきになれる、そちらの方が魅力的だった。


「全然っすよ!じゃ、乗ってください。バギーは俺がもらうんで」


 その言葉に従い、バギーを折りたたみ、それを彼に渡した瞬間、微かに触れた肌が理性崩壊のスイッチだったように思う。





 みなとくんのパパは結局、ひなたの診察が終わるまで駅前の駐車場で待ってくれていた。

 優しい?ううん、これは綺麗な優しさではない。そして私はその行為を額面通りに受け取るほど、純粋でも世間知らずでもないのだ。


 「お邪魔します」と再び乗り込んだ車内。普段嗅ぎ慣れていない他人の車の匂いからは、誘われているような甘美さを感じてしまう。


 心地良く揺れる車内でひなたは寝てしまった。病院でも泣き続けで疲れていたのだろう。

 しかしこれは、なんておあつらえ向き。きっと神様が私たちの関係の進展を望んでいる。

 

「本当に助かりました」


 と微笑めば、私の家の駐車場に車を停めたみなとくんのパパは「いえいえ」と爽やかに微笑みを返してくれた。しかし、私を見つめるその瞳の輝きは、獲物を狙う肉食獣のそれだ。今にも舌舐めずりをしそうで、私は彼の薄い唇ばかりを見ていた。

 誘われている。そして私も彼を誘っている。


 私たちが見つめ合えば唇が重なり合ってしまうこと。それは自然の摂理のようであった。




「あっ、はるかって、呼んで、」

「っはぁ、ん、はるか、、、かわいい」


 初めから深い口づけを交わした。舌を絡めて、唾液を交換し合い、これが私の味だと彼に覚え込ませるような、品性のカケラもないキスだ。

 合間に名前を呼んでもらえば、すでに崩れていた理性はグズグズに溶けてしまった。きっと慌てて掻き集めて固めても、元通りにはならないだろう。


「……まさか、はるかとこんな風になれるなんて、夢みたいだ」


 彼は少年のように瞳をきらめかせ、今のこの状況を夢みたいだと言うけれど。これは紛れもなく現実だ。私たちは2人で同じ罪を背負ったのだ。


「ねぇ、俺の名前も呼んで」


 私の唾液で濡れて、テラテラと光る唇が願いを告げる。その光は正しく本物のイミテーションで、とてもおかしい。そしてたまらなく愛しい。



「……こうじ……」


 ぽとりとこぼれ出るように落ちたそれは、この世のどの言葉よりも、正しい愛の言葉であった。


 甘い、甘い。罪は胸焼けするような甘さを内包している。

 

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