第40話:【まひる】ほんのすぐ先

 一月二十八日。午後九時に居酒屋さんのお仕事を終え、ビルの下まで店長の奥さんと一緒に下りる。

 年末の件から毎回、辺りを見回して何もないのをたしかめ、「じゃね」と。戻っていく背中をおじぎで見送り、顔を二階に向けた。


 ――あと三日かあ。

 磨りガラスの窓は、たぶん倉庫。来月からは入れなくなるんだなって、急に感じた。

 お仕事を辞めたら、この駅で降りることもなくなる。するとすぐに、知らない場所になっていくんだろう。


 ――あれ。網戸なんかあったんだ。

 見慣れて、知らないことなんてないくらいの景色なのに。眺めてたら、新しく発見した。

 何年かして、ふと来てみたら。薄い茶色のタイルは、同じ色のままだろうか。あの網戸は、破けずにいるだろうか。


 今、知ってることも。その時また発見したことも。きっと曖昧に、境目が分からないと思う。

 製菓学校や高校の時が、もうそうなってるくらいだから。ほんのすぐ先、今の私を昔の私は想像できなかった。


「あ、写真」


 スマホに残せばいいんだ。馴染みすぎて、たぶん撮ったことがない。リュックから出して画面を見る。と、RINEのマークが出てた。

 空上さんかな? 緩む頬に力を篭めつつ、通知を開く。


【空上さん】パートの人が話がしたいって、晩ごはん一緒に行ってくるね。たぶん九時ごろまで。


 ――パートさんって、女の人よね。

 うーん。と思うけど、お仕事だ。それに彼が変なことするはずない。わざわざ知らせてくれてるんだし。


 納得して、もう一つの通知を開いた。こちらはお母さん。

 内容はたぶん、いつものだ。気紛れに突然、「元気?」とか「ちゃんとごはん食べてる?」とか。


【お母さん】時間に余裕のある時、電話してね。


 ――何かあった?

 反射的に、そう思う。いつでもいいとは言ってるけど、必ず連絡しなさいなんてほとんど記憶にない。

 すぐにお母さんのアイコンから通話を選び、足を駅に向けた。


「あ、お母さん? 何かあったの」


 四回のコールで出たお母さんは「忙しいのにごめんね」なんて、いつも通りの雰囲気。

 だから、気のせいと思った。


「それがねえ。お父さん、北海道に行くって」

「うん、前にも言ってたアレでしょ。気にせずに行ってくればいいよ」


 高校生の弟たちが何て言うかは知らないけど、私はいちいち「連れてけ」なんて言わない。心配だから、宿泊先くらい聞いておけば十分だ。

 自然と急ぎ足になってたのが、ゆっくり速度を落とす。


「あら。そんなにあっさりでいいの?」

「私が止める理由ないでしょ。お仕事は大丈夫なの、とか言ってもしょうがないし」


 お父さんはマイペースだけど、その分きっちりしてる。一旦約束したら、たとえお菓子を一個買うとかでも忘れたことがない。

 私生活でもそんななのに、お仕事を適当に済ますはずがないと思う。


「お兄ちゃんは凄く心配してたから」


 愛知に居る、私のお兄ちゃんにも連絡済みらしい。それが心配してたと聞くと、警戒心がぐっと高まった。


「流氷とか、危険なとこ?」

「ううん、札幌みたい」

「ええ? 何に心配してるの」

「夕太と夕輝はどうするんだ、って」


 なんだ、と息を吐く。たぶん失笑に近かった。

 しっかり者の「自分一人で生きる」みたいなお兄ちゃんも、だいぶ甘くなったらしい。いや昔から優しいけど、弟たちが旅行に着いていくかまで言う人じゃなかった。


 そんなのお父さんのお財布に余裕があるなら一緒に行けばいいし、夫婦水入らずがいいならそれでもいい。


「どうするって?」

「あの子たちは整備士の職業訓練校に行くから、残るって」

「え、そうなんだ。初耳」


 ――ん?

 弟たちの進路をはっきり聞いたのは、たしかに初めて。だけど、と思わず納得しかかった部分をもう一度問う。


「待って。北海道に行くって話でしょ」

「うん、そう。春だって」

「雪まつりじゃないんだ?」

「それは来年になるかな。向こうに住めば、いつでも見られるでしょ」


 声が出ない。何を言っていいか、言葉も浮かばない。

 桜が丘駅を目の前に、足も止まった。


「……え?」

「え? だからね、札幌に住んだら歩いてでも行けるでしょきっと。ウニとかカニも安く手に入るのかな」


 行けばいい。止める理由がない。たしかにそう言った。

 でもどこの誰が、定年の歳にもまだ何年もある親が、突然北海道へ引っ越す想像をつかすだろう。


「ええと、ごめんね。ちょっと勘違いしてたみたい。お父さんとお母さんは、札幌へ引っ越すって言ってるの? 北海道の」

「そうそう。お父さん、この一ヶ月くらい、ずっと段取りしてたみたい。お母さんも、さっき聞いたの」


 思えば昔からだ。海水浴へ行くと言えば、「明日だ」だった。山登りも、花火大会も。

 突然かと言えば、家族の誰かが願ったこと。それをお父さんは黙々と、いつどこへ行くのがいいか一人で考える。


「お母さんは構わないの?」

「そうねえ。仲良くしてくれるお友だちと離れるのは寂しいけど、お父さんの夢みたいだし」

「知ってたの?」

「一生分稼いだら、どこか自然のある所でゆっくり暮らしたい。とは聞いてたかな」


 ――ああ、私も聞いたことある。

 でもそれが、今年のこととは思ってなかった。北海道なんて遠くとは知らなかった。


「ええと――この電話で答えは出せないかな。明日帰るから、話せる?」

「もちろん」


 電話を切ってから、お兄ちゃんは何て言ってたか聞けば良かったと思った。お父さんやお母さんは、弟たちにどうさせたいのかも。


 ――まだ空上さんのことだって話してないのに。

 私の生活や、年末からこっちのゴタゴタ。お母さんに隠してることは何もなく、当然にお父さんにも伝わってるはず。


「どうしよ……」


 真由美に相談したくても、まだ片付けなんかをしてるはず。

 頼れる相手は、彼しか居ない。でも電話は迷惑かもだから、メッセージを送ることにしよう。

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