第39話:【晴男】もっと、先の話を
「お祝いって、何のですか」
中華料理店の二人席。麻婆豆腐と白いあんかけ麺、エビチリの湯気を通した笑顔に、俺は緊張を隠せない。
「付き合い始めたんでしょ? 成人式の彼女と」
「いや、彼女じゃ――」
「ないの?」
聞いておいて、田中さんはエビを持ち上げる。よく太ったそれは、丸ごと口の中へ。
うまそうに咀嚼する間を、俺はウーロン茶で繋ぐ。
「その時は違いました」
「おめでとー!」
俺のジョッキに、田中さんのジョッキがぶつかる。
あちらはノンアルコールビールだ。本物みたいに喉を鳴らし、「ぷはぁっ!」とご満悦なのは喜ばしい。
「あ、ありがとうございます。とは言いますけど、何で知ってるんですか」
まひるちゃんと、よそのパン屋さんをリサーチに行ったのはおととい。昨日は有給にしてもらい、民宿を出たのが昼過ぎ。
猪口店長からいきさつを聞いたとしても、彼女が一緒だったとは知らないはず。ましてや、付き合い始めたとか。
なのに田中さんは、あまりに確信的だった。
「何でって。今日一日、ニヤニヤした顔見せられたら分かるでしょ。自分で気付いてないの?」
驚いて顔を触れる俺に、言った当人がにやあっと笑う。事前に練習してただろうってくらい、下世話な感じで。
「その顔、練習したんですか」
「うん。
「ご苦労さまですね」
悪びれもせず素の表情に戻り、田中さんはあんかけ麺に手を伸ばす。ひと息でおよそ半分を持ち上げ、自分の取り皿に移した。
「犯罪じゃなかったの?」
また皮肉な発言をしてから麺を啜る。熱いのもお構いなしに、ずぞぞっと。
「それを言われると。でも何て言うか、俺に必要だと思ったんですよ。彼女になら言えそうというか」
「何を?」
「仕事が終わって、家に帰るでしょ。その時、今日は疲れたーって」
田中さんの反応はない。まだ口の中がいっぱいみたいだから。それでなおも、取り皿のあんかけ麺に麻婆豆腐を載せる。
「ふうん、意外と古風なんだ」
「え? ああ、そうじゃなくて。そういう日があればいいって思うし、彼女が疲れて帰ったら俺も労いたいなあと」
納得したらしく、真っ赤になったあんかけ麺にとどめが刺された。
頷いてるのか、咀嚼してるのか。また俺はウーロン茶で暇を潰す。
「労うって?」
「うーん、どうすればいいんでしょうね。ニッフィーのぬいぐるみとかも用意しますけど、やっぱり一緒に食事ですかね」
「へー」
皮肉っぽい、軽薄な声。田中さんに悪意がないのは分かってる。あるのは、からかう気持ちだけだ。
「何です?」
「ううん、重罪だなと思っただけ。長い懲役になるよ」
「何でですか」
「うちの旦那は一人で遊んで、そんなことしてくれないもん」
――知らんがな。
咄嗟に口走るところだ。かと言って「大丈夫ですよ」とも言えない。
「俺を気遣ってくれるみたいにすればいいんじゃないですかね」
「あらまあ、正論ですこと」
やけ酒を装い、田中さんはノンアルコールビールを飲み干した。流れるような動作で、近くを通った店員さんにお代わりも頼む。
「何だか当たり前に言ってるし」
「ん?」
「もう、二人で住んでるよね。空上さんの頭の中」
「あ――」
急に話題が変わったと思えば、変わってなかった。長い懲役、の真意らしい。
恥じることでもないはずだが、不意を突かれて顔が熱くなる。
「いや、その。俺もほら、三十二だし。付き合うって言えば、結婚かなってなるんですよ。別に、明日にもとか思ってません」
しどろもどろ。慌てたものの、言った通りに間違いない。
まひるちゃんさえ良ければ、その先のことも考えてみたい。だけどたった二日で、そんな話は性急すぎる。
ただ、母さんはどうするのか。それだけは頭に置いておかなきゃいけない。俺のことだ、浮かれて忘れるとか十分にあり得る。
「えっ、ほんとに法に触れたの?」
「触れてませんて」
「じゃあそんなに挙動不審にならなくても。懲役とか言っちゃ、彼女もかわいそうだし」
言ったのはあなただ、と突っ込むところ。しかし十分にからかわれたので、乗ってやらない。「ですね」と流すと、田中さんは不満げに口を尖らす。
「すみませーん、山盛りチャーハン一つ」
「えっ、まだ食うんです?」
突然。メニューに三人前と、はっきり書いてある料理が注文された。田中さんの心ゆくまま、ここまで半分ずつ食べたので腹がパンパンなのに。
「空上さんがね」
「いやいや、食えませんよ」
「聞こえない」
右手で耳を塞いでも、左手は新しいジョッキを抱えてる。
肝を冷やしたが、なんだかんだ。田中さんは同棲もいいことと応援してくれた。
どうも以前に辞めたパートさんで、親友同士の旅行中に揉めたのが理由と。俺の知らない情報も提供しつつ。
「うちに帰ったら、病気の旦那と幼い娘がお腹を空かせてるの」
問題のチャーハンは、持ち帰りにするつもりだったらしい。持ってきてもらったプラケースに、俺も詰めるのを手伝った。
「あれ。どの旦那さんです?」
「今日見る夢の中かな」
つまみ食いしたチャーハンがうまかった。だから不穏な発言も、なかったことにする。
散らかった皿も綺麗に重ね、すっかり撤収の準備が整った時。俺のスマホが、RINEの着信を知らせた。
「何か着信音が違う」
「き、気のせいですよ」
専用に設定したメロディーは、まひるちゃんからだ。上げかけた腰を下ろし、画面に触れる。
【まひる】明日、会えますか?
届いたメッセージに、首を傾げた。「んん?」くらいは声が出たかもしれない。田中さんが乗り出してきて、画面を覗く。
「あら、待ちきれないの?」
「そうなんですかねえ……」
俺の返事を、照れてると思ったんだろう。くすくす笑う素振りで、田中さんは口もとを押さえた。
しかし膝に載せたバッグからも、着信音らしきメロディーが流れた。
「あたしもだ」
田中さんは、ひと言ふた言くらいの文字を打ち、スマホを戻す。特に変わったことじゃないようだ。
それらの時間を考えても、俺の疑問は解けない。なんでまひるちゃんは、こんなメッセージを送ってきたのか。
今は午後九時過ぎ。聞いているシフトだと、居酒屋のアルバイトを終えてそれほど経ってない。
明日は元々、俺のシフトが休みになってる。だから当然、会う約束をした。
一分、一秒を惜しんで、間違いなく会えるよねと言ってくれたのなら嬉しい。
だがパートの人と食事をするとは、もう知らせてある。まひるちゃんの性格なら、それが済んだという連絡を待つんじゃないか。
――何かあったのか?
嫌な予感が。いや悪寒が、背中を走った。
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