第38話:【まひる】同じ気持ち

 押し当てたほっぺが、押し返される。

 どん。どん。彼の胸板の向こうから、誰かが拳で叩いてるみたい。


 何て自分勝手なんだろう、空上さんを困らせてる。こんな寒い中、暖房もない所はダメとも思うけど。引き止めてる強い気持ちは、また違う。


 ――私はこの人の何なのかな。

 彼はとてもいい人だから。きっと私のことも、何だかいい関係に思ってくれてる。それが嫌じゃないけど、変わらないのは寂しい。

 今、空上さんを行かせたら、ずっとこのままな気がした。


「いや、俺はさ――」


 違う。探るみたいなこの切り出し方は違う。両腕をぎゅうっと、思いきり彼のお腹を締めつける。

 欲しい言葉が出てくるまで。他は全部、この腕の所で塞き止めてしまいたい。


 もちろん私にそんな力はないけど、空上さんは声を続けなかった。それを私はいい人だなあって、だいじに胸へしまい込む。


「風邪、ひいちゃうので」

「いいんだって、俺なんか」


 油断したら、また。どうしてそこだけ、私の気持ちを察してくれないんだろう。背中のお肉をつかみ、力いっぱい握った。

 でもダメだ、痛くも何ともないらしい。


「そんなこと言わないで。私の好きな人を悪く言わないでください」


 ――あ。

 言った。この言葉だけは言うつもりじゃなかったのに。大切な気持ちを伝えようとしたら、いつの間にか声になってた。

 彼も驚いてる。大きなぬいぐるみみたいだった感触が、丸太のように硬く。


「あ、いや……」


 呻くような声。空上さんの胸板を叩く力が、さっきより増した。私も負けないように、しっかり抱きついて離さない。


 そうやって、どれくらいが経ったか。

 とても静かな部屋。どこか遠い果てのほうで、お鍋やお皿の音が時に聞こえる。

 二人とも黙ったまま、じっと動かずに居た。


 言うだけ言ってしまって恥ずかしいのと、くっついてる言いわけをしなくていいのと。どちらにしても私は、彼の顔を見られない。


 バサッ、と不意に木の枝が鳴る。静寂の中、大きな音に私は身体を縮こませた。

 ふわり。大きくて柔らかい物が、私の背中を包む。


「まひるちゃん――」


 手だ。

 肩から毛布をかけた空上さんの腕が、私を引き寄せてる。その先の両手が、背中と腰に。

 最初は様子を見るように、そっと。私が動かないでいると、徐々に力が増していく。


「大丈夫。好きですよ」


 だからもう一度教えてあげた。すると空上さんの息が、ひゅうっと大きく吸い込まれる。

 ぎゅうっと、少し乱暴にも思うくらい抱き締められた。だけど痛くなんかなくて、彼の温もりでいっぱいになる。


 ――答えてくれないのかな。

 こうしてるだけで、たくさんの気持ちで溢れた。それなのに私は、言葉でも聞きたいと思ってしまう。

 急に欲張りになって、言ってもいいか迷った。


「空上さん」


 名前を呼んでみた。彼が頷いて、聞かない選択肢がどこかへ消えた。勇気を出し、言葉を続けようとする。

 と、けたたましい音が鳴った。部屋に備えられた、電話が。


「な、何ですか?」

「電話だよ。宿の人かな」


 お互いに、さっと離れた。私はなぜか窓の外を見て、彼は咳払いしながら電話を取る。


「はっ、はい何でしょう。あ、食事ですか。ええ、一階の奥。分かりました」


 切る時にも、短くベルが鳴った。きっかけに振り返り、白々しく「どうしたんですか」と問う。


「参ったね、晩ごはんらしいよ。階段下りて、奥に食堂があるんだって」


 空上さんは気まずげに頭を掻いた。一瞬、目が合ったけど、なぜか彼も雪の強まる窓の外へ視線を逃がす。


 *


「お腹いっぱいだし、あっついよ」

「ですねえ、さすが漁師町です」


 民宿の奥さんは「用意がなくてごめんね」とお鍋を出してくれた。

 カレイの水炊きは、かぼす醤油で。ネギやお豆腐が、ほかほかお腹にする。ごま和えの春菊。半分に切った肉じゃが。

 空上さんは、ごはんをお代わりしてた。


 部屋に戻ると、空気が凍りついてる。暖房をつけっぱなしにしたほうが良かったのかも。

 でも大丈夫。彼はもう、部屋を出て行こうとしない。念のために手をつまむと、すぐに握り返された。


「俺なんか――じゃない。俺のどこがいいの」

「全部です。優しいし、頼りになるし」


 繋いだまま、コタツに座る。電源も入れてないのに、ほかほか暖かい。


「頼りにねえ。酔い潰れて家まで送らせても?」


 きゅっと喉が締まる。これは不意打ちだった。空上さんは、大したことなさそうに笑う。あのお話をしたと覚えてないのかも。


「大変でした。重いし、なかなか歩いてくれないし」

「えっ、マジで? ごめん」


 拗ねたふりをすると、神妙に声を窄ませる。うん、やっぱりだ。


「覚えてないんですね」

「そうなの。母さんが保育士とか、そういう話をしたくらいは覚えてるんだけど。俺、何か言ってた?」


 ――どうしよう、話したほうがいいのかな。

 空上さんの傷を、私が知ってると。伝えないほうがいいのかも。

 答えに迷った。その時間を、彼も怪訝に私を見る。


「初めて会った時。ドイツに行こうとしてたって」

「そんな話?」

「です。富士山の森の奥へ、ロープを持って」


 ずっと考えてた。生きるのを諦めたと聞いて、ずっと。でも何度考え直しても、同じ答えに辿り着く。


 私の気持ちを彼が迷惑に感じたら?

 それなら仕方がない。でも私は、彼を支えたいと思う。堂々と、正面から。

 だから逃げずに、知ってると答えた。


「ああ……」


 握った彼の手が、少し緩む。うん人間だもの、それで普通に違いない。

 私がその分、握る力を強くした。


「たぶん自惚れです。でも空上さんが、私だから言ってくれたかなって。ドイツに行くより楽になれるって、信じてくれたかなって」


 自惚れというか、そうだったらいいなとお祈りに近い。

 二人して窓を眺めた。すっかり夜の闇をバックに、ガラスの向こうで雪が踊る。じっと見つめる彼の横顔を、そっと盗み見た。


 疲れたように見えるのは、いっぱい運転したからかな。

 雪の動きを追ってるのか、瞳だけが忙しく動く。それが突然、こっちに向いた。


「ごめん、その時のことは覚えてない。だけど今、どうかなって考えてた」


 目が合ったことに、空上さんは驚かなかった。見てたのを気付いてたみたい。

 ちょっと笑ったのが、いたずらっぽいような。苦しくも見えるような。


 ともかく頷くしか、私にはできなかった。話す先を聞きたいから、じゃなくて。

 とても、とても。

 彼を愛おしいと思って。


「俺さ、もういい歳でしょ。まひるちゃんと一回りくらい離れてて、オッサンなのよ」


 そんなの関係ない。声を遮りたくないから、否定するのは首でだけ。


「ええ? うん、まあそれで。好きとか何とか、範囲にないと思ってたの。俺が言い出したら犯罪だし、まひるちゃんからなんてあるわけないし」


 ――もう、また言ってる。

 腹が立った。今まではそうだった、という話と分かってても。

 それがきっと顔に出たんだろう。彼は「いやいや」と慌てて言葉を繋ぐ。


「でね、今はなんだけど。まひるちゃんは、自分より周りの人を大切にする人だから。もし俺がその相手になれるならって想像してみた」

「もし、じゃないです」


 我慢できなかった。握った手を持ち上げ、振って見せる。


「うん、そうなんだよ。この先を考えたら、凄え嬉しいって思えた」


 答えてもらった。さすがに勘違いはないはず。だけど用心深い彼には、まだ証拠が必要かも。

 ――どうしたらいい?

 証拠って何だろう。思い付いたのは一つ。それは恥ずかしながら、単に私の願望だった。


「じゃあ……?」


 呟き、目を瞑る。空上さんの唾を飲む音が、耳に近い。繋いでないほうの手が、肩を引き寄せる。


「俺も好きだよ」


 分厚くて柔らかい、とても熱い物が。私の唇に触れた。

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